豪遊中学生
自己紹介
こんにちは。バナボ千尋です。
僕は社会人2年目に適応障害で休職し、3カ月で復職したサラリーマンです。
現在も適応障害やその他精神疾患に悩む方に向けて、克服のヒントとなるブログを書いています。
僕自身のリアルな体験談は以下記事に書いていますので、気になる方は読んでみてください。
駿台のフジ
僕は中学2年の春から、塾に通い始めました。
バスケ部の友達と同じ塾がいいな〜と思って、駿台に入りました。
そのバスケ部の友達は小学生の頃から駿台に通っていて、既に塾内でコミュニティができていました。
僕は塾に通うのは初めてでしたから、最初は真面目な人がたくさんいるんだろうなぁと不安な気持ちもありました。
実際には必ずしもみんな真面目ではなかったです。よく塾の教室でイタズラをしていましたから。
しかし、とにかくみんな優秀で学校とは違う刺激がありました。
その中でも1番優秀で面白かったのがフジです。
フジは馬主の息子でした。
競馬に詳しい方でしたら、「ジャスタウェイ」という馬をご存知ではないでしょうか。
10年前ドバイのG1で勝った馬です。
なんとそのジャスタウェイの馬主の息子のフジ。
当時僕は競馬番組をよく見ていたので、そのすごさを知っていました。
いったいどんな金持ちなんだと。
その事実をフジに教えてもらったとき、
「500円ちょうだい」って言ってみたんです。
そしたら、500円くれたんですよ。
馬主は500円すぐくれるんだと思ったことを強く覚えています。
唯一、塾の友達と遊べる日
塾の友達というのは、家も学校もバラバラなので、なかなか一緒に遊ぶ仲でもなく、絶妙な距離感でした。
そんな塾の友達と唯一、一緒に遊べる日がありました。
駿台模試の日です。
普段は夜の授業のため、終わったら即解散ですが、模試は土日の昼間なので終わった後に遊べるんですよね。
初めて彼らと遊びに行く日、何をするのかわくわくしました。
中学生時代の遊びといえば、カラオケとボーリングが多かった気がします。
フジ達が向かったのはゲーセンのメダルゲームゾーンでした。
メダルゲームって中学生にとっては少しアダルティな香りがする場所。
僕はメダルゲームはしたことがありませんでした。
驚いたのは、フジが1万円札を機械に入れてすべてをメダルに交換したこと。ほかのみんなも5000円以上使っていました。
大量のメダルを持った中学生集団。
周囲を見回しても、異様な量でした。
マリオのゲームをやることになったのですが、誰もゲームのルールを知らなかったのです。
テキトーにメダルを入れて、遊びながらルールを学んでいきました。
夕方になってもなかなか使いきれませんでした。
みんな飽きてきて大量のメダルを一気に入れるのですが、大量に入れれば入れるほど、大量にメダルが返ってくるのです。
「うわーーー!すげーのあたったぞ!めっちゃ出てきた!!!」
みんな嬉しいのと、もういいよという気持ちが交錯して笑っていました。
帰るころには、外は真っ暗でした。
「フジ、それにしても1万はもったいなくね?5000円でも十分遊べるし、1万あったらディズニーとか行けるじゃん」
「あー、いいのよ、他にお小遣い使うことがないんよね」
「今度みんなで1日ディズニー行こうぜ」
僕はみんなともっと遊びたくて、提案しました。
「うーん、勉強しろって親がうるさいからさ。模試の後は遊んでいいことになってんだけどね〜」
「そっか」
フジの家
その後も特にフジとは仲良くなって、いろんな話をしました。
勉強の話が多かったでしょうか。
僕は数学や理科など理系教科が苦手だったのですが、フジの話す理系の雑学はおもしろくて聞くのが好きでした。
ある日の帰り道、話しながら歩いていたらフジの家に着いたことがありました。
家の前に着いても話し足りなかったので、立ち話をしていました。
すると、フジのお母さんが買い物から帰ってきました。
「こんにちは、駿台で一緒の千尋です!」
「こんにちは。なにしてんの、早く勉強しなさいよ」
「あぁ、うん。」
じゃあね。と言って、その日はフジと別れました。
中3の夏。
僕は都内のバスケの強豪校への進学が決まり、駿台を辞めました。
卒業のころにバスケ部の友達からフジが日比谷高校に受かったことを知りました。
今何をしているのか、わかりません。
また会って、何を考えているのか聞いてみたいものです。
変なやつでしたから。
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