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整ったセックス・アクト【村上春樹考】

 村上春樹の小説において、セックス・アクトの登場数は尋常ではない。(これは、褒め言葉として考えてほしいし、これから先に書くこともそうだ。)単に回数だけでみれば、その様、まるではっちゃけたアダルト・ビデオのようである。しかし、村上春樹の文学には、猥雑さ、行為のもつ野獣性がない。言うなれば、官能に欠ける。まるで、彼の文体のように、小綺麗で整って、まるでチーズ・ケーキのような形をしている。それは、純真無垢な神々を描いた絵の、女神の胸に似ている。あれで、愚かであり、愛すべき欲求を満たそう、なんて人はそうそういないだろう。

 私は、村上春樹の短編集が好きで、よく読む。長編はページ数的に中々ヘヴィだから、少しの、余白のような時間を満たすには余りあるから、よく短編を読む。そして、それを読んでいる時間というのは、洒落た雑貨屋、もしくはレコードカフェかなんかで窓の外を眺めたり、小さなケーキを味わって食べるの感触なのだ、個人的には。そういう中で、セックスが出てくる、当然の顔をして。普通だったら、それにはピンクだなんだと妖艶で、病的な感じの粉が振りかかっているのだけれど、それがない。言うなれば、ものの中を全部空洞にしてしまった感じ。勃起なしに読むセックス、それは不能者の意ではない。

 村上春樹といえば、今や日本における高名な小説家の一人だ。名作もいっぱいである。けれども、文豪という感じはあまりしない。それは、彼の文体が純文学の凝り固まった、神保町の匂いがしそうなものでないことも大きな要因の一つだろうが、勃起を呼ばないセックス、でも陰萎じゃない、そんな矛盾の中の清潔さも影響しているのではないか。そして、そんな感じが、人、特に真なる都会人的なものに訴えるのではないか。(都会人とは、織田作之助曰く、スタイルということを言わない。つまり、田舎にいる都会人だって、存在しうる訳だろう。)