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美しい柿たち

 神奈川の外れ、安アパートの二階にある部屋の窓からは柿の木が見えた。

 なんでもこのあたりは柿の生産がさかんらしく、街中のいたるところにその木が生えている。僕が住んでいるアパートの隣には畑がある。その畑は、だいたい小さな公園ほどの広さがあり、畑のすみには二本、柿の木が生えている。それが窓から見えるのだった。
 しっかりとひろがった枝には柿が大量になっている。その実の数は、葉の枚数よりも多いのではないかと思うほどであった。よく枝がおれないものだと感心する。

 柿の実は赤色が濃くなってきており食べごろに見えた。少し固くあっさりとした柿も好きだが、熟れすぎてとろけ始めた柿もまた好きだった。柿といえば秋。「そういえばもう秋なのか」と誰に聞かせるわけでもなく呟いた。

 夏はいつ終わったのだろうか。
 毎年そうだ。桜が散った後に「花見をしなかった」と言い、花火大会が終わった後に「林檎飴を食べなかった」と言い、街の木が裸になった後に「イチョウ並木を歩かなかった」と言い、年末最終営業日まで働いた後に「クリスマスなんてなかった」と言う。
 今年の秋はさしずめ「柿を食べなかった」とでもいうのだろうか。

「それは嫌だなぁ。食べたいな、柿」

 相手が必要な花火大会やクリスマスなどとは異なり、柿なんていつでも食べられるはずだ。なのになぜ今の今まで食べなかったのだろう。この窓から見えるあの柿の木だけが、この世界に存在する唯一の柿だとでも思っていたのだろうか。あの柿の木が僕の所有物でないから、食べることはできないとでも。

 ここ数日、毎日あの柿の木が目に入り、柿を食べたいと考えていたのに、どういうわけか「柿を買いにいこう」という判断にはならなかった。まるで僕の脳内にあるその選択肢を誰かが隠していたかのようだ。
 そもそも季節を忘れるほど忙しいのがいけない。IT企業はなぜどの会社も残業があり、どの案件も炎上するのだろうか。

 僕はプログラマーとして雇われており、以前は本社に出勤していたが、ここ最近はリモートワークが許可され自宅で働いている。たしかに通勤がなくなったぶん体力の消耗はさけられるし、自由時間も増えたはずだ。

 それなのに僕は疲弊しきっていた。忙しすぎる。「通勤がないからこそ、もっと残業できるだろう」という謎の理論で業務量が増えていった。営業が無理やり取ってきた案件は、明らかに無茶なスケジュールのままスタートし、僕達エンジニアは毎日パソコンの前で死にそうになりながら仕事を続けている。通勤がなく、狭い部屋にこもり切りになるせいか、精神的に追い詰められる人も増えてきている。

 つい先日もまた一人新人が音信不通になり、急に人員を増やせるわけもなく、彼の抱えていた業務は元いたチームメンバーで分担して巻き取ることになった。今、まさにその業務を誰が巻き取るかについてWeb会議をしている最中である。僕もそのチームにいる。そしてなぜかリーダーのような立ち位置を任されている。

『……進捗遅れてます。平日の残業で取り戻せるので休日出勤するほどではないです』

 チームメンバーそれぞれが進捗の報告中である。僕は『いつもどおりみんな遅れてるのね』と、ある種達観したような心持ちで聞いていた。

 そんなことよりも窓から見える柿のほうが気になる。気づけば貧乏ゆすりをしていた。画面ではなくちらちらと横を見ながら貧乏ゆすりをしている僕はチームメンバーからどのように見えているのだろうか。トイレを我慢しているように見えるかもしれない。と、仕事とは無関係なことを考えていると、僕が報告する順番がまわってきた。

『斉藤さんは今週中に今のタスク終わりそうですか?』と僕の上司である竹内さんが言った。
「……そうですね、残業をすればなんとか」と苦い声で僕は答えた。

 みんな毎日残業をしているので、あらためて「残業をすれば」と言う必要もない。各自が自主的に残業をする前提で話を進める上司に対して小さな抵抗のつもりだった。

『ありがとうございます。では皆さん引き続きよろしくお願いします。あ、斉藤さんはこの後少し話したいので残ってもらえますか?』

 嫌な予感がする。聞かなくてもいいなら聞きたくなかったが、「はい、わかりました」と僕は答えた。十人弱のチームメンバーがWeb会議の部屋から抜けていき、最後に竹内さんと僕だけになった。

『お疲れ』
「お疲れ様です」
『別に悪い話……じゃないから。あんまり』
「あんまり……なんなんでしょう?」
『あのねぇ、今やってるこの案件の営業担当、金田さんがね、来月で辞めることになったんだわ』

 僕は怒りのままに、はぁ? と言いかけたが、頭を抱えて「うぅん」と唸ることでどうにかこらえた。そして五秒ほど時間をかけた後、たずねた。

「……なるほど。案件は大丈夫なんですか?」
『営業部のほうで引継ぎはちゃんとやってくれるから大丈夫。我々エンジニアの業務は特にかわらないからさ。ただ一応リーダーやってくれてるから斉藤さんには伝えておこうと思ってね』
「はぁ。わかりました」

 竹内さんとの会話を終え、Web会議部屋への接続を切った後、僕は業務用のノートパソコンを閉じた。そのまま開いていると怒りのままに余計なことを誰かに言いそうだったからだ。メンバーとはチャットツールでやりとりをしている。あまりにも簡単にメッセージを送ることができるため手が滑りそうだった。

 営業の金田。彼のにやついた顔が思い出される。頭の回転がはやく口が上手い。平気でぎりぎりの嘘をつく。しかしそれで上手くいくから営業部の中では成績がよかった。最初から相容れない存在だと認識していたが、ここに来て大嫌いになった。
 エンジニアが何度も「このスケジュールだと無理ですからね」と念を押したにもかかわらずそのままのスケジュールをお客様に確約し、見事に契約までこじつけたのだ。その尻ぬぐいを今死に物狂いでしているのに、奴は抜けるのか。

 どうでもよくなってきた。今日は、もう仕事に集中できないだろう。今は昼の十二時で、ちょうど昼休憩が始まる。一時からまた業務を再開しなければならないが、この時点で僕は午後の業務をさぼると決めた。
 僕はまたパソコンを開いて、『体調がすぐれないため、午後休とさせてください』とチームメンバーにチャットを送信し、パソコンの電源を落とした。

 机に置いていたコーヒーを飲み干して、ため息をつく。
 窓から外を見る。そのまま二、三分ほど放心状態で何も考えずにいたが、自然と頭の中は一つのことで埋め尽くされていた。

 柿を食べたい。

 適当な服を選んで、財布だけを持って外へ出た。家から歩いて十五分ほどの場所にある八百屋を目指す。八百屋にたどり着くまでにも道には柿の木がぽつんぽつんと見え隠れしており、生殺し状態だった。今の僕は射精寸前の中学生みたいな目つきをしているに違いない。

 八百屋に着いた僕は他の野菜や果物に目をくれることなく橙色の領域だけを目指したが、先客がいた。五十歳くらいの女性が柿の前にいた。彼女は手にキャベツを持ち、柿を見るともなく見ていた。
 店の奥から四十歳くらいの男性が出て来た。店名の書かれた紺のエプロンを腰に巻いており、腰ひもの上には太鼓腹が乗っていた。百屋の店主だった。

「えーい、らっしゃいらっしゃいらっしゃいらっしゃい!」

 彼は大音量のだみ声でそう言った。そのとてつもない声量は店の入り口にたたずんでいた僕の体全体をしびれさせるほどだった。先客の女性も「あぁもう、びっくりした」と小声でぼやいている。

「そこな美人のお姉さん! キャベツもいいけど、デザートに柿なんかいかがですか!」
「柿ねぇ……」
「柿! 一個百円ですよ。安いですよ。美味いのに。美味いのにこの値段!」
「じゃあ、試しに一つだけでも?」
「あい、毎度!」

 一個百円が安いのかは僕に判断がつかなかったし、おそらく彼女もよくわかっていないだろうと思われた。勢いで買わされたように見えた。会計が終わり、彼女が店を去ると、次のターゲットは僕だった。

「えーい、らっしゃい! さっきから待ってたお兄ちゃん! へぇ、男前だねぇ。はじめまして! はじめましてだよねぇ?」

 確かにはじめましてだ。この店には、はじめて来た。僕はあっけにとられたまま無言で会釈をした。

「さ、なんにする? あててやろうか」と言いながら店主はにやついた。
「え? はい」僕はまんまと乗せられた。
「わかる。わかるよ。柿だ。柿だろう!」
「なんでわかったんです?」
「さっきから柿しか見てない」
「あぁ、確かに」
「お兄ちゃん一人暮らし? あぁそう。なら五個くらいいっとこうか。多い気がする? 大丈夫大丈夫! 美味しいからすぐなくなる。少ないくらいだよ」

 店主は一人で喋り続けた。僕は不細工な笑顔で「はぁ」と言いながら考え込んだ。店主はまだ押しが足りないと思ったのかさらに繋ぐ。

「さっきのお姉さんは一個だった。ありゃお試しだからね。でもお兄ちゃんは違う! 柿を買いにきた。そんな顔してるもん。だったらいっとかなきゃ。最低五個。ね? 十個買ってくれたらちょっと安くしてもいい」
「なるほど。じゃあニ十個ください」僕はピースサインをしながらそう言った。
「はいよ! ……えぇ? 二十? いくねぇ!」

 僕の大胆な注文に思わず店主も笑顔から真顔になった。本当は五個くらいでよかった気もするが、なんとなくこの店主にいいようにしてやられるのは気に食わなかったので馬鹿みたいな個数を注文してしまった。
 ばら売りになっている柿を二十個袋につめる間、店主はなおも一人で喋っていたが、さすがに面倒くさくなり僕は生返事で適当にあしらった。

 最後に袋を受け取ったときのぐっと来る重みには思わず僕も笑顔になり、「ありがとうございます!」と自然に大声が出た。

 柿のたんまり入った袋はさすがに重かった。五キログラムほどはありそうで、歩くのが少し大変だった。ちょっと後悔し始めた。しかしその重さは僕の柿に対する期待をじょじょに膨らませているような感覚があり、嫌なものではなかった。リモートワークで弱った足腰もこのときばかりはいくらでも歩けそうなほど軽かった。

 信号も僕のことを祝福しているのか、二回連続青で、立ち止まらずに進むことができた。
 そして三つ目の信号もやはり青だった。

 僕は眠っている。いや、そう認識可能な時点で起きている。明晰夢は見たことがない。
 寝転がっている。腕が痛い。ゴツゴツしている。これはアスファルト、これは道路だ。
 道路に寝転がる? 若い頃、泥酔したあげく道端で寝てしまい警察に補導されかけたことを思い出した。目を開けるとやはり今回も警察がいる。また酔っぱらってしまったのか? いや酒を飲んだ覚えはない。それに今回は救急車がいる。野次馬もいる。なんだか人がたくさんいる。

 思い出した。僕は八百屋の帰り道、車にはねられたのだ。信号は青だったはず。
 体が動かない。動かすのを諦めて目だけで横を見ると、大量の柿が地面に転がっていた。

 黒々と光るアスファルトの上に無造作に置かれた柿たち。
 底抜けに透き通った秋の空から今まさに落ちてきたかのような散らばり具合だった。
 つやつやと橙色に光る柿たち。
 綺麗だ。

 救急車の中で一度目が覚めた。さっきは道路にいたはずだが、いつのまにかまた眠っていた。いや気絶というほうが適切なのかもしれない。ともかく、救急車の天井は機能性に特化していて色気のない白色だった。寝心地は悪くない。あまりうるさくないしあまり揺れない。……本当か? 音も揺れも認識できていないだけかもしれない。

 病院で目が覚めた。救急車の中でまた気絶したようだ。こんどこそ目が覚めた。
 いろいろと検査をされたが、手のひらを擦りむいたのと、骨盤の右側を打撲したくらいで、その他に大きなケガや異常は発見されなかった。車にひかれてこの程度で済むのかと逆に不安になったが、この場で医者を疑ってもどうにもならないのでひとまず信じることにした。医者は眉毛が太く、声も太く、体は痩せている男だった。頭が良さそうな顔をしていた。
 僕はひりひりした手のひらを気にしながらたずねた。

「もう検査は終わりですか?」
「いや、念のため一日入院してもらいます。明日もう一度様子を確認して、問題なければ退院ということで」と医者は言った。
「わかりました。あれだけはねられたのに擦り傷と打撲だけって、あまりよくわからないのですが、よくあることなんですかね?」
「いやいや、それだけで済んだのはかなり運が良かったんだと思いますよ、あなた。かなり強くはねられたらしいので、打ちどころが悪ければ死んでましたよ!」と言いながら医者は大きな声で笑った。

 病院の二階、四人部屋の窓際にあるベッドが今日の寝床となった。窓の外は薄黄色に染まっていた。朝焼けのような気もするし、夕焼けのような気もする。時計を見ると十六時半だった。昼過ぎに家を出たことを考えると、はねられてからまだ三、四時間しかたっていない。途中で眠っていたため時間感覚が狂っている。

 手のひらがじんじんとする。それだけだ。腰はそれほど痛くない。医者は「打ちどころが悪ければ死んでましたよ」と言っていたが本当だろうか。

 もしかしたら僕は今日死んでいたのか。
 普段生活していて季節すら忘れるくらいだ。当然、死という概念も忘れたまま生きていた。そういえば人間は死ぬ生き物だったと、今思い出した。なぜか僕も日本人の平均寿命である八十歳まで生きるような気でいたが、平均はただの平均なのだ。ただの目安だ。

 例えば、歩道を歩いているとき、後ろから来た自転車が僕のすぐそばを通りすぎていくことがよくある。そういう時、大体の場合、僕は自転車の気配に気づかない。なので、そのタイミングで仮に僕が足元に落ちているゴミを避けようとして急に一歩横にずれたとしたら、後ろから来た自転車にひかれる可能性があるのだ。自転車にひかれるだけならケガですむかもしれない。しかし、ひかれた勢いで車道側へ転んでしまえば、今度は車にひかれるかもしれない。そして死ぬ。

 例えば、電車を待っているときに、たまたま後ろの人が貧血で倒れそうになるかもしれない。その時、列の先頭で待っている僕は背中を押されて線路に転がり落ち、タイミングよくホームに到着した電車にひかれるかもしれない。そして死ぬ。

 そういった日常の中にふわふわと漂っている死の可能性を、今日まで何度も僕は乗り越えてきたのだ。いや、自覚なしに生きていたので、僕が乗り越えたというよりも、死の可能性に避けてもらっていたという認識が正しいのかもしれない。

 そして今日、死の可能性は僕に肩をぶつけて去っていった。
 それは『次はないぞ』という警告だったのか。あるいは、たまたま当たっただけで、また明日からも死の可能性は当分のあいだ僕を避け続けるのか。

 なぜ今回もまた僕は生き残ったのか。さっぱりわからない。日ごろの行いも良いとは言えない。初詣にも行かなかったし、盆の墓参りにも行かなかった。人助けをしたこともないし、部屋に入って来た虫はことごとく殺す。社会の役に立つ仕事をしているわけでもない。僕が死に物狂いでプログラミングをしても、せいぜい営業と会社が喜ぶくらいだろう。

 また営業の顔を思い出してしまった。せっかく柿をたんまり買って忘れかけていたというのに。
 そういえば僕の柿はどうなった?
 ベッド脇には僕の服や財布やスマートフォンなどが置かれているが、柿はなかった。まだ事故現場に落ちたままだろうか。さすがに邪魔だから、道端によけられているか、捨てられてしまっただろう。

 あの美しい柿たち。青い空、黒い道、橙色の柿を僕はまた思い出した。

 せっかく午後休を取ったのに、結局手元に何も残らないまま終わってしまった。僕はじんじんと自己主張する手のひらを無視しながらため息をついた。
 なんだか残りの人生も同じように進むのではないかという考えが去来し、心底馬鹿らしくなった。何かを得ようとしてもうまくいかず、仕事ばかりして目的を忘れ、ふと目的を思い出したとしても邪魔が入りご破算になる。
 
 そして最後は唐突に死ぬ。馬鹿らしい。

 もういい。
 もういいのではないか?
 僕は今日、車にはねられて死んだ。
 そういうことにしておこう。真面目に生きているふりはもうやめる時がきたようだ。残りの人生、今日ここからの時間は全部おまけということに決めた。ロスタイムでありボーナスタイムだ。好き勝手やらせてもらおう。

 僕はベッドから立ち上がり、ぺたぺたとスリッパの音を鳴らしながら窓際へむかった。
 窓から病院の庭を見下ろすと、柿の木が見えた。ほんとうにどこにでも柿が生えている街である。
 夕日に染まった柿の木は今の僕にとってこの世で一番美しい存在に思えた。ここがエデンの園なら、僕は蛇にそそのかされるまでもなく、あの柿を勝手にもぎって食べるだろう。好き勝手やるというのはそういうことだ。

 ベッド脇に置いていたスマートフォンを手に取り、業務用のメールアプリを開いた。竹内さんのメールアドレスを送信先に入力した。件名には『ご相談』と入力した。手が震え始めた。

 二十分ほど悩んだ結果、本文には『会社をやめようと考えています。詳細は明日以降お話させてください。』と入力し、送信ボタンを押した。好き勝手やるというのはこういうことだ。

 窓の外は黄昏。すでに柿の木は影しか見えない。

 会社を辞めたら何をしようか、と考えた。今すぐにやりたいことなんて一つしか思いつかない。柿を食べる。ただそれだけだ。逆にそれ以外にやりたいことはすぐ思いつくものでもなさそうだった。僕には時間が必要なのだ。

 とりあえず明日、退院したら帰り道に柿を買おう。そして柿を食べながら、じっくりと時間をかけて残りの人生について考えるのだ。

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