見出し画像

【日記】アラ20の壁と5月病-前編-

アラサー・アラフォーという概念があります。around30・40の略で、30歳・40歳周辺の年齢層。アラサーと言うと25〜34歳を四捨五入して呼ぶイメージでしょうか。

僕は今年で24になります。つまり、アラ20のラストイヤーということです。アラ20なんて言葉があるのかは分からないですが、要するにアラサーの一歩手前まで来ているということ。
そんなアラ20最後の1年を控えて、日々漠然と「このままで良いんだろうか?」という不安と闘っています。


いたずらに歳だけ喰っていく

そもそも、まだ24にすらなっていないのに何故アラサーだのなんだのと怯えているのか。それはここ数ヶ月の流れの早さに気持ちが追いついてないからです。

1年目の前半は良くも悪くもゆっくり考える時間がありました。でも最近は目の前の業務を必死にやっているうちに1日・1週と過ぎていて、気付けばまたひと月終わり。そして1年目も終わっていきました。
一月往ぬる二月逃げる三月去る」という言葉があるそうですね。本当にその通りでした。逃すまいと構えた頃には既に背を取られていました。無念。

大した成長の手応えも無いまま2年目に突入したし、なんなら2023年も上半期が終わろうとしてます。終わりました。
このまま1年、また1年と経っていき、いたずらに歳だけ喰って30代に突っ込んでいくんじゃないかと思って、「このままで大丈夫なのか?」となってしまった訳です。


飲み仲間が居なくなった

学生の時は授業終わりや土日にしょっちゅう飲みに行っていました。同じ人たちと2~3日続けて行くことも多々あり。

最近は飲みたいヤツ・誘いやすいヤツほど、仕事が忙しかったり引っ越して離れたりしてしまい、前ほど会わなくなりました。行くとなっても半月前くらいから調整するような予定の合わせ方になり、金曜日に仕事終わりの勢いのまま……みたいな華金飲みは無くなりました。学生の頃の方が華金してたってどういうことなんだろう?

こうした状況だと、必然呼びやすい人を何度も誘うことになるので「さすがにまた呼ぶものなぁ」となって渋ります。
さらに身近な友達や先輩で同棲している人も居て。それぞれの生活・都合があるから、これまた気安くは誘いにくい。

社会人になる前「30代で周りが結婚したり子供産まれたりして、徐々に遊び仲間が減ってくんかなー」って思ってたけど、その時期は想像していたよりももっともっと早く来そうです。
これも「このままいたずらに歳だけ喰ってしまうんじゃないか」に拍車をかけているのです。


こんな自分が情けなくなる

周りの友達には忙しい業務や特殊な勤務形態の仕事をしている人が多いです。月40時間以上の残業がザラだったり、みなし残業だったり。数十連勤していたり、連日のように終電帰りだったり。

対して、僕の勤務先は9~18時の一般的な勤務形態だし、残業も多い月で20~30時間程度。残業代は働いた分だけ出る。健全な環境で働かせていただいています。
もちろん、こんな環境でもそれなりに頑張って働いていれば、大変な思いも苦い経験も起こり、その中で愚痴や不満もこぼれます。
ですが、友達の激務の話を聞いていると「この程度で音を上げている自分はなんて情けないんだろう」と思えて言葉に詰まります。

最近、自ら進んで仕事の話がしにくくなりました。働く環境も努力も苦労も人それぞれで、他と比べて優劣をつけることではないと分かっているのですが、どこかみじめな思いになってしまうのです。


マウントを必死で隠す

そんな思いを抱いている一方で。会社の同期と話している時には、漏れ出そうになるマウントやイキリを必死に飲み込んで隠している自分もいます。

僕が1年目の秋から派遣された職場は、派遣のタイミング・状況などが最初にしてはイレギュラーの多い環境でした。だからほんの少しだけ「他の同期よりハードな環境で働いている」と錯覚できて。自社からは「○○社は若手の登竜門だよ」なんて言われて、まんざらでもない気になっていた。

でも一方でそんな環境で働いているという浅はかな自負があるからこそ、安易に「疲れた」「忙しい」と言うと「忙しいアピール」「大変マウント」を取っているように思えてしまい、ここでもまた仕事の話がしにくくなりました。
別に誰もそんな視線を向けていないのに。というかお前の職場が忙しいか暇かなんて誰も知らないよ、と冷静になれば分かるんですけどね。

どうしてこんなに拗らせたループに陥ってしまうのか。それは僕の中で2つの気持ちが並立しているからです。
「他より大変な環境で頑張っている」と錯覚してバーチャルな優越感に浸りたい自分と、「たかが1~2年目の環境で大変とかほざいんじゃねぇよ」と腐す自分。
どちらも今の自分が抱えている正直な気持ちで、かつ誰かと分かち合いたい感覚。とても浅く安い承認欲求・黒い自意識で、恥ずかしいし偏屈極まりないからとても人には言えない。

あと佐久間さんの『ずるい仕事術』の影響もあるんですよね。
この本を読んでから、僕は自社や派遣先の環境、そこで働く人たちへの愚痴や不満は安易に口にするものじゃないなと強く思いました。
その場だけの刹那的な快楽に過ぎず、抱えてる問題の根本的な解決には全くならないから。そして悪口は必ず誰を傷付けることでしか成立しないから。

まぁ弱音と愚痴は違うんですけどね。ただ、弱音も突き詰めれば誰かを咎める陰口になるんじゃないかと思えて、なかなか言えなくなりました。

どうして素直に「ちょっと色々大変でさ、少し話聞いてくれない?」って言えないんだろう。
「特別な環境で働いてる」なんて浅い自負を捨てて、己の未熟さと真摯に向き合い、かつ「新人には新人の大変さもあるよね」と謙虚に構えれば、何も難しい話ではないのに。


ねじれる評価

ウダウダ言って「じゃあ、そのハードな環境とやらで成果を出したのか?」というとそうでもなく。むしろ前期の評価は想定してたより低かった

1年目は「頼まれた業務を素早く確実に」が大事だと思っていたし、それを重視して日々の業務に励んでいました。でも派遣先の期待役割はもっと高次にあって、その結果評価が低くなりました。考えが甘かった。

確かに「向こうはお金払って人を雇ってるんだから、1年目だろうが5年目だろうが100でコミットして欲しいよな」とは納得しつつ。「結構頑張ったつもりなんだけどな。まだまだかー。」という悔しさや焦りもありました。

そんな評価とは裏腹に自社で新しい業務を任されたり、大学からちょっとした会へのお声かけを頂いたりしました。「実力を買ってくれて有り難いな」という反面「そんな大層な人間じゃないんだよなー。なんせ評価低いし」と、これまたみじめになる。社会人ってみじめな思いの繰り返しですね。


学ぶべきこと

Webディレクターとして働く以上、学ぶべきことは多いです。

デザインの部署で働いているので、デザイナーさんと円滑に仕事するためにもデザインの基礎やトレンドは知っていた方が良い。
同時に企画を形にしていく部署でもあるので、ライティングとプランニングを身につけないと話についていけない。
たまにコーディング業務があるから、最低限は覚えておかないといけない。
これからはデータ分析に明るいと重宝されるらしい。自社でもデータのスキルアップはよく言われる。
そして、まず何よりもディレクション力を高めないと話にならない。だけど、優柔不断と心配性だから舵取りが甘く、チームの皆さんには度々ご迷惑をおかけしている。

こんなにたくさん学ぶことがあると、「じゃあ結局何をやれば良いんだよ」と思う。でも早かれ遅かれ、多少のムラはあれど、「全部できるようにならないといけないんだろうな」とも思う。プロとして働くってそういうことだから。
プロとしての理想は全てのスキルがある程度高い水準にある状態です。対して今の自分は全てがレベル1。

今の部署は僕と年が近い人はほぼ居なくて、年齢やキャリアの上の人が多いです。だから皆さんしっかりした実力があって、自分だけがただ無力。
それでも優しい方ばかりなので「いつも助かります」「気が利いてありがたいです」と言ってくださって。
そうした声にありがたいと思いながら、「自分にもっと力があれば、フォローできる場面はもっと増えるのに」という気持ちにもなります。そして実際に評価も低かったから、余計に「早く一人前にならないとダメなんだ」と焦ってしまう。

あるべき姿は日進月歩でしか成し得ないのに、現場や評価面では一早く高いレベルが必要になっている。理想と現実に大きなねじれがあって、ここでも息が詰まりそうになります。


満たされない日々

そんな仕事ばかりに視野がとらわれるのは良くないので、切り替えるために休日は外に出かけています。
でも出向いた場所にすげー行きたいのかというと、そういう訳でもなく。なんなら1時間くらい地図を睨めて、無理矢理に目的地を作っている日もあります。

行った先でもなんとなく散歩し、なんとなくカフェでお茶をし、なんとなく晩飯を食べ、なんとなく銭湯で湯に浸かる。「今日1日なんだったんだろうな」と日曜を終え、「この土日も結局なんもしてねぇな」って思いながら月曜を迎える。

人にこの話をすると大抵「めっちゃ有意義な休日じゃん!」「俺なんか1日中YouTube見て終わっちゃうなー」と言われます。
僕が休日の過ごし方を高望みして、欲張り過ぎているのでしょうか。たとえ高望みだとしても、貪欲に高みを追い続ける熱量も無いし、かと言って「これで良いのだ」と足るを知る謙虚さも無い。

段々と自分が本当は何をしたいのか、何をしたら楽しいのかがよく分からなくなっていきました。


夏休みの終わり

そんな中でも人と会う時間は楽しいです。ただそれにも悩ましさがありまして。

人と集まった日の帰り、ライブやフェスなど自分の好きなものを観た帰り、無性に切なくなることが増えました。
「もう終わっちゃったかー」とか「次集まるのいつになるんだろうなー」とか。その場が楽しければ楽しいほど、盛り上がれば盛り上がるほど、落差が苦しくて帰り道で泣きそうになります。だから「今日は絶対楽しいだろうな」って会はお腹にグッと力入れて参加しないといけない。

この感情何かに似てるなって思ってたけど、夏休みの終わりに似てるんですよね。
あんなに長かったはずなのに、もう残り2日。終わってもすぐ学校で会うし、休みも土日になれば来るのに、終わるっていうインパクトだけが強く胸に残るあの感じ。
友達と会うのもこの先何度もあるだろうに、これが最後みたいな寂しさを毎回喰らってしまいます。


幸せの感覚

振り返ってみると、大学生の終わり頃は確かな幸福感と将来へのモチベーションがありました。今と何が違うんだろうって考えたけど、当時は周りの人に深く入り込んで、ともに歩いている感覚があったような気がしています。

派遣先の同僚も自社の同期も、仕事仲間の域を越えきれない。
本当は飲みだけじゃなく遊びにも行けるような、もっと気軽に誘える仲になりたいと思うものの、「みんなが会社の人間と仲良くしたいとは限らないよな」と尻込みする。
このままだとお互いちょっとずつ誘わなくなっていき、2~3年後には関係性が無かったかのようになったり、知らない間に転職していたりするんじゃないかという怖さもあります。

大学までの友達も少しずつ会えなく・会わなくなっていく。せっかく会えてもそれとなく近況報告をしていたら、あっという間に時間が過ぎる。
久しぶりに会えた満足感よりも、終わってしまった喪失感の方が強く胸に残って、重い足取りで帰り道を歩きます。

仕事も友達も関係性が希薄になってきたから、イマイチ幸せを感じられないんだろうか。でもそうだとしたら、友達が結婚して同僚が転職した先の未来で、僕はどうやって楽しく生きていくんだろうか。もしかして詰んだ??


社会人を生きるのは難しく悩ましい。20代を生きるのも悩ましく難しい。
社会人2年目を迎え、アラ20ラストを控える5月、大きな壁の前でもがき闘っていました。


中編へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?