見出し画像

はげしく陰鬱なる感情のけいれん(Suuns「Zeroes QC」レビュー)

本稿は2011年の原稿ですが、例によって多少のブラッシュアップ、改行を加えて再掲しました。

Suunsは「サンズ」と読みますが、本稿ではサンズについて語っていませんので、気になる方はWikipediaなどでお調べください。カナダはモントリオールのバンドです。

耽美・坩堝・瘴気

「お祈りなさい 病気のひとよ—ああこのまつ黒な憂鬱の闇の中で/おそろしい暗闇の中で—ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ」(萩原朔太郎『青猫』より「黒い風琴」抜粋)

漆黒のオフビートに乗る沸点の低いベースが、しっとりというよりもねっとりと沈み込むような体液の中に沈み込むようにうねる。そこにおけるビートは執拗なまでにねちっこい展開をしたかと思えば、次の曲で突然、不整脈のように浮沈するし、どこからともなく不明瞭な人間の呟きや、動機のわからない怪し気なクラップの音が響く—そうした目に見えない不安を煽るように、暗闇から滴る血液のような恐怖に、生暖かい声で「神経症の子供」があやされる。

・・と、そうした情報はあなたに萩原朔太郎のこんな一遍を思い起こさせるかもしれない。

*

「今回のアルバムでは単純なリフか、或いはキーボードのループから始めて—そう、各要素を小さく限定して、それを可能な限りエクスパンデットするようにしたんだ。」

—ラオス語でゼロを表す“suun”を冠したバンド=サンズは、カナダはモントリオール出身の4人組であり、デビュー・アルバムである本作についてはこのように語っていたが、同じくモントリオールのブレイクグラス・スタジオのジェイス・ラセックを共同プロデューサーに迎え、『Zeroes QC』で彼らは、

USインディらしい「如何にも」ヘイト・アシュベリー然としたアシッド・ロックから、「ロマンティックな」フロア対応のダンサブルなシンセポップ(「Arena」)、そして或いは、しばしば「スコール」と称される深く歪ませたギターの創出するフロウティングな空間に「俯き加減の」ロウファイなダーク・ポップといったジャンルの「可能性」を示唆しつつ、それらを全て、一つ一つスロウに躱していく。 

過度にデカダンス的な耽美な詩世界をサン(Sunn O))))やエレクトリック・ウィザードのようなドローンの坩堝で煮込んでしまいがちなアプローチを仕掛けながらも、そうした迂闊に「迷い込ん」だ意識を攪乱させるような、肩すかしを食らうような曲群は或いはガレージロック然とした乾いたギターであり、

終始アトモスフィリックな呪詛的なヴォーカル―ナイーヴな傷つき易い少年を演じたり(「Fear」—“ここは寒くて、仄暗くて何だか変なんだ…でもどうしてこうなったのかわからない、ただ僕は恐いんだ…”)、背筋が凍るようなマッドネスを歌ったりと、多少荒削りではあるものの、ヴァラエティーに飛んでいる。

生音と打ち込みの間を横断しながら彼らは、ノイズ・インダストリアルの「亡霊」たちの立ちこめる瘴気をモダンに回避しているように見受けられるのだ。但しギターは叫喚のようなエフェクトを掛けられて唸り、過度に攻撃的な要素はないけども、どこか不安の残るような仕上がりになっている。

ある種お馴染みのレーベル

「例えば…「Pie Ⅸ」という曲は同じことを何度も何度も繰り返すんだけど、でもリピートの中に少しずつ要素を加えていって、緊張感を保つようにしたんだ」(Ben Shemie/ Vo)

アグレッシブで隙間の無いビートにはスロッビング・グリッスル直系のボディ・ミュージックの要素を挿みつつ、数々のアートロック、或いは同郷モントリオールのミニマル音楽から影響を受けたという彼らの音楽は、そのアプローチはトータル・セリエズムを踏襲しつつ十二音技法的な無調の音楽と繰り返しの否定からの「音楽/非=音楽」に関するコンフリクトから「作品」と対峙した例のノイズ・ミュージックの鱗片も感じさせるけれども、

本作にはそこはかとなくモダンなヴァイブスも漂っていて、それは前述した通りだが、なるほど洞窟を蝋燭の明かりを便りに彷徨するような、独特の張りつめた空気のようなものが認められる。

彼らの言う緊張感はある種のリズムのようなものを以てアルバム全体の流れにも踏襲されていて、緩急を付けるというよりも曲を隔ててかなり急なシフトが掛かっているため一見散漫な印象を受ける本作も、なるほどそうしたレイヤーを全て結合した先に、『Zeroes QC』の全体像が、ひいてはサンズというバンドの輪郭がほんのりと沸き立って来るのかも知れない。

因みに配信元であるシークレットリー・カナディアン(Secretly Canadian)は1996年発足のインディアナのレーベルで、アニマル・コレクティヴ、イェイセイヤー、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズの新譜などがまだ記憶に新しいと思うが、

この辺りは現在アリエル・ピンク、リアル・エステイトらのフォレスト・ファミリー、若しくはスリープ・オーヴァー(Sleep∞Over)、ガントレット・ヘアーらが所属するブルックリンのメキシカン・サマーと並び要は、ある層の人間にとっては「お馴染み」のレーベルであるということを付則しておく。

浮遊・ノスタルジア・最大公約数

911以降のアメリカではベティ・ホワイトといった昔から知っている近所のおばあちゃんのような往年の俳優がCMなどで度々フィーチャーされていたということは有名だが、人間は、自身が不安定な状況下にはそうしたノスタルジア(「過去」的な事象の追体験)を求めるきらいがあるそうだ。

00年代的な第三の審級の喪失的な「浮遊の時代」にフィットしたのが「空を飛ぶような」、ネオ・サイケデリアの運ぶユーフォリアだったとしたならば(アニマル・コレクティヴ〜MGMTの1st)、

10年代に入って「波へ乗りに」出て行ったユース達はでは今、何処に居るのだろうかと私は思っていて、だから本作を聴いて先ず最初に浮かんで来た印象はだから、00年代後半に俄に沸き立った「パーティーの喧噪」を遠目に見送って(この辺りがGlo-Fi/ Chillwaveの誕生の次第であったりもする)、彼らはどうも「祖父の」すすけた(Grimy)地下室で神経質なダンスを踊っているようだということだった。

ガントレット・ヘアー(Gauntlet Hair)、ウー・ライフ(WU LYF)といった10年代に立ち上がったインディ・バンド勢との共振を感じさせながらも、まだ何かが隠されているのだろうというどこか得体の知れない魅力がある。

本作のタイトルである、或いは彼ら自身の関した概念である「ゼロ」が象徴するように、彼らの存在ははだから、アルバム全体を通してもどこかフォグなまま残る。したがって、『Zeroes QC』リリース後の彼らはまだ彼らの言う「彼ら(=私)自身」にはなっていないのだろうけども、本作で垣間見える(「彼ら自身の」)鱗片をほんの少しでも味わってみると中々に面白く、今後が楽しみなバンドであると私は思う。

思えば、10年代始めの一年は「センチメンタルでナイーヴな感性」に多く触れたような気がするが、嘗てのジョニー・マーのように「雨の降る11月の水曜の朝」はダブルデッカーに乗り込み、或いはただ、「頭を窓におしつけて」いるだけで良かったのかも知れない―「過去」を縫い付けて、バスは動き続ける。

<あとがき>

本稿も例によって過去の原稿のブラッッシュアップですが、10年代の空気感を語る上では必要な気がしたので再掲しました。

ユリイカの新しい号でヴェイパーウェーヴ(Vaporwave)についての特集が組まれるようですが、改めて2010年あたりを振り返ると、面白いですね。

スキニー+黒い服+革ジャンを着ていればだいたいクリスタル・キャッスルズやホラーズの文脈が拾ってくれましたし。


もしお気に召しましたらサポートで投げ銭をいただけると大変に嬉しいです。イイねボタンも励みになります。いつもありがとうございます〜。