見出し画像

虚構・脆弱・ユーフォリア(個人的00-09年代ベスト・アルバム)

超・超個人的な00年代ベストアルバムですが、00年代に10代を過ごした筆者がいかに生意気なキッズだったかとてもよくわかるレビューがあるので、生暖かく見ていただければと。

HIGH LLAMAS『Buzzle Bee』(2000)
OPIATE『While You Were Sleeping』(2002)
T-BONE BURNETT『Tooth Of Crime』(2008)
THE SUPERIMPOSERS『Missing』(2006)
THE WHITE STRIPES『Get Behind Me Satan』(2005)
たま『しょぼたま 2』(2003)
MATMOS『Chance To Cut Is A Chance To Cure』(2001)
THE CORAL『Roots & Echoes』(2007)
PAJO『1968』(2006)
PETER DOHERTY『Grace/ Wastelands』(2009)

暴力、タナトス、脆弱性

過剰なまでの現実の注視とそれに伴うセンチメンタリズムは、(暴力性を孕んだ)ヴァルネラヴィリティを含んでいる。

「現代」に於いて「若者」が死にたがるのはどうしてなのか。

そこを解析するために「現代」の置かれている環境についての設定を今一度、確認すると、リジッドな「理想」的な足場の崩れた「虚構」の世界を生きる彼らの「底抜け」の不安が見えてくる。

誘拐、ペドフィリア、同性愛ーのトラウマー初期のパトリック・ウルフに見られる過剰なまでの現実の注視とそれに伴うセンチメンタリズムは、(暴力性を孕んだ)ヴァルネラヴィリティを含んでいる。

たまにもそれは共通していて、彼らの歌に於いて登場人物がしばしば死体だったり、死んだ自分を俯瞰する自分、或いは霊体であったりするのは、或いは知久寿焼がタナトスに取り憑かれているのは、彼の出自と深く関わっていて、往々にして彼らは「現実に、逃げる」(ことによって、直面すべき「現実」を回避している)。

だから知久は「幼い子供」の謳をずっと歌っているわけだが、それはさておき、『しょぼたま』シリーズは「たまよりもしょぼい、たま」というコンセプトでサポート・メンバー等の介入なしに、ミニマルにライブ対応の音源を輩出するプロジェクトで、その第2作目に収録されたヨハン・セバスティアン・バッハのカヴァーを見るにつけ、やはりその抜きん出た演奏力の高さには舌を巻いてしまう。

たまはそういった意味でも「日本人離れ」したバンドだった。日本人離れしながら、流しのギターであった知久の祖父の影響で明治~昭和初期辺りの日本の歌謡曲をルーツに持っているというのも面白い。

「だれもいないから、きみしかいない」(「きみしかいない」たま)

ーたまといえば90年代にデビューしたバンドだという認識の方が強いと思う。

00年代のたまは、物理的なバンドの解体を経て、バンド然としたものから離れたアプローチを奇しくもせざるを得なかったところがあったのだと思うが、牧歌的なバンド・サウンドに忍ばせた毒はどんどんと表に出て来ていて、どちらにせよ、たまの何かが捻切れたような「暴力」にすっかり魅了されてしまった。

ドラッグ、サイケデリック、ミニマル

彼らの持つマッドさと、無意味-有意味性の間を軽やかに往来する佇まいがクールで気に入っている。「私」を発見するのは、本質的には「私」である(『Ovalprocess』)。

補足の必要なものについて駆け足で解説する。

・T-BONE BURNETT『Tooth Of Crime』はドラッグ・アディクト患者の動悸のように波打つグルーヴの放つ少し危ういドライヴ感がスリリングな一枚。フォグでダル、それでいて独特の病的なユーフォリアを含んだ音像はまるで、オピウムを密かに吸う若者のそれを髣髴とさせる。

・マトモス、トーマス・ナック(Opiate)の名前からはビョークの『Vespertine』を想起される方も多いかも知れない。もちろん著者も例外なくビョークが好きだし、事実『Vespertine』は私のフェイヴァリットかもしれない。

整形外科手術の現場から採ったサンプリング・ソースからなる『Chance To Cut Is A Chance To Cure』は、彼らのサウンド構成のスキルの秀逸さを見せた一枚。

Matmosは「Tバックでお尻に尻尾が付いている格好でダンスをしながらゲイ・バーで働いていた」、ドゥルー・ダニエルとそれに惹かれて声を掛けたマーティン・C・シュミットからなるエレクトロニカのデュオで、ガスター・デル・ソルの片割れであるデイヴィッド・グラブス、アントニー&ザ・ジョンソンズ、前述したようにビョークのライヴ・パフォーマンス等の仕事ですっかりお馴染みだと思う。

イノヴェイティヴなアティチュードを多岐に渡って如何なく発揮する彼らは、公私ともにカップルであるというから、ヴィトゲンシュタインの「如何にも」な引用も納得である。

ガスター・デル・ソル、アルヴァ・ノト、オヴァル、ミクロストリア辺りのミニマルでアヴァント、エクスペリメンタルなアティチュード。彼らの持つマッドさと、無意味-有意味性の間を軽やかに往来する佇まいがクールで気に入っている。「私」を発見するのは、本質的には「私」である(『Ovalprocess』)。

・ジョン・マッケンタイア、ジム・オルーク、バンディ・K・ブラウン。或いはトータス、ガスター・デル・ソル。ドラッグ・シティからのドロップになったHigh Llamasの『Buzzle Bee』は、そういったシカゴ音響派の「ビジネス」をメタに俯瞰する。

「ライ麦畑で寝転んで、車の流れを見ている/そうすると天使が降りてくるんだよ、あの辺りに」(「The Passing Bell」High Llamas)

ここまで来てプロデューサー、シカゴ音響派、ノイズ、アンビエント、ミニマルへの傾倒が、私の中では00年代に如実に現れていたことがわかる。

***

思えば、00年代初頭10代になったばかりだった私は当時俄に勃興が見られたゴア・トランスやら、ガバ的なBPMの兎角早いビートの曲をよく聴いていて、かなり生意気な子供でした。いやはや、お恥ずかしいかぎりです。

<補足>

ちなみに、本稿については過去に掲載した下記のポストが元になっています。(※ほとんど原文ママですが、読みづらい箇所に改行を入れるなど若干のリテイクをしています)

原文は2010年8月26日?にリリースされています。当時19歳の自分が書いた文章ですが、どこかトチ狂っていて好きなのです。

また、各アルバムのAmazonへのリンクを掲載します。
(※今見るとプレミア付いてるものもありそうですが・・)


もしお気に召しましたらサポートで投げ銭をいただけると大変に嬉しいです。イイねボタンも励みになります。いつもありがとうございます〜。