気にしない練習しなきゃだめ?
「気にしない練習」っていう本がありますよね。
きちんと読んだことはないです。
私も家族から言われるのです。
気にしすぎ、と。
自分が自分のことで悩んでいたら、「気にしすぎ」の言葉かけ勇気づけられる。
例えば、自分が自分の容姿のことで悩んでいたら、「そんなことないよ。大丈夫だよ。〇〇の気にしすぎだよ」っていう感じ。
ですが、他人の言動でこちらが傷ついたときに、「〇〇は気にしすぎ。そんなこと、どうでもいいじゃん」と言うのです。
それはその他人がしたひどいことを棚に上げているだけのように思います。
たとえば、先日、家族が私の靴の上でレインコートを干していた。
なのでそのしずくが私の靴にぽたぽた落ち(夜中ずっと!)、「私の靴の上であなたがレインコートを干していたから、朝、靴の中が濡れていて、一日中靴下が濡れたままですごさなければならなかった!」と私が注意すると、「それぐらいいいじゃん、気にしすぎ」と返された。
そんなことあったら、あなたはどう思いますか?
靴の中を濡らされ、一日濡れた靴下で過ごさなければならないのを不快に思うのは気にしすぎなのでしょうか?
私が細かい人間なのでしょうか?
その人にとっては靴下が濡れることくらい、小さな、どうでもよいことなのかもしれない。
でも、不快指数は人によって違い、それがどれだけ嫌なことかはその人が決めること。
他人に決められたくない。
うちではよくそんなことがあります。
家族に不潔さに頓着しない人がいるので、いつも「気にしすぎ」らしい私が我慢するはめになる。
例えば、みんなが集まるリビングで虫を飼い、よく、虫かごの中の木くず(しかも湿っていて臭い)がちらばっているとき。
掃除するのはいつも私で、「木くずが落ちているから掃除してね、飼うときに約束でしょう?」と言うと、「そんなことくらい、気にする方が悪い」と言われる。
他でもよく聞く「洗面台びしょびしょ問題」もうちでは日常茶飯事です。
奥さんは台所や洗面台の上、床をいつも乾燥させていたい。
旦那さんはそんなこと気にせずに豪快に顔などを洗い、床も洗面台もびしょびしょ、後から使う人のことは全く考えていない。
それもやっぱり、うちでは洗面所の床が濡れているのを気にする方が悪い、ということになっている。
他にも相手の気持ちを考えずにデリカシーのない冗談を言う人がいるけれど、「それくらいの冗談、本気にとる方が悪い」と言われることがある。
二者間でのやりとりなら、気にする方が悪い、というのは加害したほうが反省したくない言い訳にしか聞こえないのです。
気にするようなことを言う方が悪いに決まっている。
いじめるほうが悪いか、いじめられる方が悪いか、論と似ていると思います。
一昔前、学校でいじめ事件が起こると、いじめられた側にも原因がありますよね、なんて言われた。
そんなことあるわけないでしょ。
いつも強い側の理論がまかりとおる。
被害を受けた側は加害した側に言いくるめられるというか、「あなたが少数派だよ、だからあなたが受け入れなさい」と言われ泣き寝入りすることが多い。
加害した側は、自分がしたことを相手の立場に立って考えることができないのでしょう。
「気にしない練習してよ」と言われる。
自分で自分の嫌なことをくよくよ考えてしまうなら、気にしない練習はおおいに結構なのですが、二者間でのやり取りの場合は加害した側が今後はそれをしないようにすればすむこと。
被害者に努力を強いるのはおかしいですよね。
気にしない練習をするかしないかだって本人が決めたい。
周りが強制することではないです。
わが社は障害者雇用をコンサルティングする会社です。
株式会社 ジェー・シー・プラス
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<株式会社ジェー・シー・プラス(JCP)代表>
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