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「観光のまなざし」とフェノロサが提示した「日本美術のまなざし」を、鹿を見ながら考える

文責:土肥紗綾Balloon Inc. CMO)

2020年夏から奈良で実践型アートマネジメント人材育成プログラム「CHISOUチソウ」に参加している。
(CHISOU自体の詳細については本記事末尾に記載。)

その活動の一環として奈良でのフィールドワークに参加したときに考えたことをつらつらと。
キーワードは、「観光のまなざし」と「フェノロサ」。

観光地に自分の体を移動させることは必須か?

以前もスポーツをリモートで観戦することと現地で観戦することの違いについて書いた。
ある種の身体的拘束があり、場所に身を置くことでしかミミクリやイリンクスは感じられないのだから、きっとリモート観戦は現地観戦を超えられないのだろうと思う。

では、スポーツではなく観光はどうなのか?
これだけVRが進んでいるのだから、ヘッドギアを装着して360℃の視界が確保されていれば、さぞかし奈良を歩いている気分になれるだろう

ジョン・アーリは、フーコーの「まなざし」の概念を用いて近代の観光現象に迫ろうとし、「観光とは、日常から離れた景色、風景、町並みなどに対してまなざしを投げかけること」であるとしている。
ここで注目しておきたいのは、アーリがゴフマンの〈演出法の社会学〉に注目しながら、「観光者が視覚以外にも多種多様な感覚を用いて観光行動を行っている」と述べている点である。
(たしかに。フィールドワークを実施したが、きっと一人ひとりが見たり感じたりした景色は違うであろう。まあ、それがVRであっても同じく異なるとは思うが。)
VRでスキなだけ自由に観光地を見られることは、観光では、ない?
観光のまなざしではなく、ただの映像を見ているだけということ?

観光(のまなざし)はどのように変化してきたか?

長距離移動が可能になり、ガイドブックが生まれ、見た景色を保存するカメラを持った我々は観光を楽しむようになった。観光地の景観を一方向的かつ客体的に消費する対象として捉えるようになった。

しかし、ここ2.30年の間で観光に変化が生じている。
観光のまなざしは特有の場・特有の時に発生するとされてきたが、ポストモダンにおける、

・アンチ・アウラ
・文化の生産者と消費者の脱分化構造
・ポストモダンの反選良主義(反エリート主義)

などが変化の要因となっているという。
人々はいまや権力が決めたアウラ的なものではなく、より「平俗」で民衆的なものに興味を持つようになっている。美術・博物館はマルチメディア化が進み、学術目的の収集機関から情報伝達の方途として変化を遂げた。
現在、多くの観光地がテーマ化のなかにあり、場は観光のまなざしの影響やそれをとりまく社会関係によって常に刷新されるものなのである。

フェノロサが創り上げた”まなざし”

フェノロサは1878(明治15)年、東京大学の御雇い教師として来日。教師の傍ら、日本美術の研究をてがけ、美術や文化財行政の基礎確立に大きな役割を果たしたとされている。
能楽、漢字・漢詩を学び、仏教に帰依するなど、自ら実践して日本文化の核心を探ろうとしたフェノロサ。当時軽視されていた日本の芸術が、東京帝大教授の職にある西洋人によって再認識された影響は極めて大きかったことが容易に伺える。
そのフェノロサは奈良の仏像(今回、東大寺にて見た国宝)を見てずいぶん感動したそうである。

フェノロサの講演内容をまとめた『美術真説』は当時の美術関係者や有識者に重要な影響を与えた。特に本文内で有名とされるのは、絵画批評の指標として示された「十格」である。

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それは本当に自分の”まなざし”?それとも、作られた”まなざし”?

フェノロサが提示したのは、日本美術をどのように見てどのように評価するかというものであった。
ものさしを提示する行為が「まなざし」という言葉で完全に表すことができるとは思えないが、ここでは、観光のまなざしとフェノロサが提示した日本美術へのまなざしを俎上に載せてみたい。

観光のまなざしという概念が生まれた当初は、観光する地域と自分の間に線を引くことであたかも水族館や動物園のように観光地に眼差しを向けていた。
その構図はここ30年で変貌を遂げていく。テーマパーク化する観光地と、反エリート主義から生まれた「権力から生まれたものよりも民衆的なもの」を求める観光者。近年のインスタ映えなどもこの変化の中に含まれているのであろう。そして、今回のコロナ禍によりさらなる転換が起こることは想像に難くない。
「観光のまなざし」が移り変わっていく中で、フェノロサが提示した「日本美術へのまなざし」は変わることがないのだろうか?美術の世界はサンクチュアリであり、時代という波に飲まれることはないのだろうか?
もちろん、芸術だとかアートだとかいうものはたくさんのひとの合意で成り立っているようなものであって、バンクシーというモノにアート業界が「乗っかろう」と決めたからこそ、今日のような状況になっていることを踏まえると、ある意味で既に時代や思惑に飲み込まれているから、「十格」のような基準はもう変わらないものであると考えることもできるかもしれない。
ただし、今一度、フェノロサが提示した「まなざし」を再考することは、今日の中途半端に資本主義を嫌う現代の芸術シーンにおいて必要な作業でもあるかもしれない。
そもそも、「まなざし」は個人の目から見える景色や価値観を表しているのだろうか?まなざしとは社会や環境から強制的に与えられている色眼鏡であるとは考えられないだろうか?

自分の体を動かして移動した奈良で感じたこと

今回のフィールドワークでは、「●●を観てください」「●●を調べてください」といった指示はなく、まずは奈良を歩いてみるというものだった。
残念ながら私は感受性豊かではないので、東大寺ミュージアムで仏像を見ても、「どこかで見た仏像も布の揺れ動くさまを木彫りで表現しようとしていたなあ、すごいなあ」とか、「厳島神社にいた鹿よりも人にグイグイ近付いてくる!?」という小並感しか出てこないのであった。

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無理やり意味を見出すとすれば、過去の経験(見たもの)と比較する傾向があるのかもしれない。それはある意味において、私なりの「観光のまなざし」と言えるのだろうか。
きっと一人ひとりが見たものや印象に残ったものは違うはずである。それを共有することで何か新たなものが生まれるのだろうか。それらの最大公約数がガイドブックなるものなのであろうか。
そんなことを考えながら、Pokemon GOをひらきつつ、フィールドワークを終えた。

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別角度から考えたnoteはこちら👇


CHISOUについて

多彩な講師と学び合い、アートプロジェクトを実践することで、答えのない時代を生きる技術を育みます。3つのプログラム「読解編」「表現編」「共有編」を通して、美術や舞台芸術、音楽などの芸術領域を横断するアートプロジェクトを、リサーチ・企画・運営・アーカイブするプロセスを経ながら、多角的かつ総合的にマネジメントするための技法を実践的に身につけます。年齢や経験、学生・社会人など所属を問わず、文化芸術や地域創造に関心のある誰もが受講できるプログラムです。みなさま、奮ってご参加ください。
アートプロジェクトを共に企画・制作・運営することで、アーティストが実際に行うフィールドリサーチや文献講読、インタビューなどの手法を修得します。また、美術館や芸術祭でのラーニングプログラムを参照しながら、アートと地域の人々をつなぐ方法について考え、具現化します。



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