オリンピックが東京で開催される年のはじめに、スポーツ好きの体育嫌いが願うこと

 スポーツは好きです。特に大の野球ファンであります。昨年から、各メディアではオリンピック関連の話題が多く取り上げられ、スポーツ好きではありますが、すでにおなか8分目。もう、わずかのおかずしかおなかに入らなそうです。そんな私の腹の具合をよそに、今年はなんでもスポーツにからめられちゃうんだろうな、教育現場はどうなんだろうな、と想像します。そんなとき、小学生時代のイヤ〜な思いがよみがえるのです。そして、心配になるのです。「私みたいな子はいないだろうか」と

恐怖で楽しいフリをしたドッジボール

 私は体育の授業が嫌いでした。運動が苦手ということもありましたが、熱血タイプの体育系教師が担任になった5、6年生でそれは決定的に。私は、幼いころからスポーツは好きだったのです。祖父と同居していたこともあり相撲はよく見ていて、力士の名前、出身地、部屋などに詳しい子どもだったし、プロ野球の中継もよく見ていました。また、バレーボールのW杯とアニメを夢中で見ていて、よく友人と必殺技のマネなどをして遊んだものです。

 5、6年生時の担任は男性で、担任に授業内容がまかされていた道徳の時間には、男子生徒に「体育館を見てこい」と言って走らせ、空いていることがわかると「よし、行くぞ!」となってゾロゾロと移動し、体育館でドッジボール開始、ということがよくありました。本来、机に座って授業を受けるべき時間にドッジボール=遊びをさせてくれるのですから、先生が「体育館を見てこい」というと、教室が湧きました。先生も「生徒がよろこんでいる」ものと思っていたでしょう。

 でも、6年生くらいになると私は「ドッジボール楽しくない、痛いし、寒いし」という思いを自覚するようになりました。あるとき、きっと私のような思いを抱いていて、それがドッジボール中の態度に出ていたのであろう女子の近くの壁に、先生がいきなりボールを投げつけて「イヤなら教室帰れよ。もうやらないぞ」と怒鳴りました。それ以降、私は「楽しいフリ」「先生に感謝するフリ」をするようになりました。30歳前後の若い男性教師が、壁にボールを投げつけたり怒鳴ったりする迫力は、そうさせるほどの恐怖があります

体育の授業って大ざっぱだったよね

 また、昭和50〜60年代は、小・中学校ともに生徒数がホントに多かった。体育の授業といえば「さぁ、やってみよう」という大ざっぱな感じで、テクニック的なことやコツをていねいに教えてもらった記憶がありません。徒競走でいえば、ひざを上げる、腕を振る、なんてことすら知らずに、ヨーイドンでただ走っていた。ちょっとしたことでタイムが上がったり、できるようになったりしていれば、もっと体育が好きになっていたよなぁー、と思います。現に、地域のクラブで基本的なことを教えてもらったバレーボールは好きだったし、得意でもありました。

創作ダンス、何それ? ブルマ強要、ふざけんな。

 高校にはダンス部の顧問でもある女性の体育の先生がいて、ダンスを創作する授業があったのですが、いまの100倍くらい「ダンスって何?」という時代。ダンスの概念、創作する方法なども教えられないまま、曲を選び、振り付けを考えなさいと言われました。戸惑いと苦痛の時間でした体育の先生が男性だったときには、高校生にしてブルマを強制されました。大人のいまなら「セクハラだ!」「ブルマになる意味は?」などと言って対抗することもできるでしょうが、「ブルマにならないと減点だ」と言われ、降参状態でした。いま思い出しても、怒りと恥ずかしさで体がプルプル震えてきそうな経験です。

 時代は変わり、いまはあのころよりも、ていねいで、実用的で、最新の研究結果が取り入れられ、人権も尊重された体育の授業が行われていることでしょう。一方で、あのころはそれほど意識されていなかった「スポーツはすばらしい」という考えが、強い力をもっているのではないでしょうか。そして迎える、今年の東京オリンピックです。

スポーツ「だけ」からしか、得られないものではない

 スポーツの大きなイベントがあるたびに、私たちは、スポーツに感動させられ、スポーツに夢や希望をもらい、スポーツにさまざまなことを学ぶ。そもそも、スポーツには、適度な身体刺激、健康増進という大きな役割もあります。繰り返しますが、私はスポーツが好きです。しょっちゅう泣いています。学校の先生や指導者に背中を押され、チャレンジし、苦しい思いをした先に、かけがえのない感動、達成感が待っているかもしれない。そういう可能性があるスポーツはすばらしいものです、それは間違いない。それを承知の上で、私が願うのが、体育の授業、学校のイベント、社会生活のあらゆる場面で、「スポーツのすばらしさ」を押し付けないでほしい、ということです

 近年は、スポーツが世界中のすべての問題を解決しそうな勢いのコピーやミッションを掲げる企業も見かけます。でも、感動も、夢や希望も、学びも、スポーツ「だけ」からしか得られないものではない。スポーツにさまざまな効果はあっても、悩みやトラブルを必ず解決してくれる万能薬ではない。そもそも、運動が嫌い、苦手な子もいる。そして、私と同じ、あるいは違うことが理由で、体育の授業(先生)が嫌いな子もいるでしょう。スポーツの力を信じる気持ちはわかります。本当に生徒のため、と思ってのことでしょう。でも、当時の私のように、先生の顔色を伺っている生徒はいないでしょうか。すばらしいスポーツも、押し付けてはトラウマになります

あらゆる選択が尊重される社会でありますように

 私は野球が好きで、野球界にすばらしい人材が継続的に加わり、今後も盛り上がり続けてほしいと思うけれど、子どもたちが選ぶものが野球ではなく、ほかのスポーツでも、そもそもスポーツではなくても、「何か」を見つけられたらそれはすばらしいことだと思います(私が「野球」を職業にしていないからかもしれませんが)。大人であっても、人生を豊かに彩る何かを見つけたのなら、もうそれだけですばらしいことじゃないですか!

 あらゆる人が「何か」を選んだその選択が、尊重される社会でありますように。軽んじられたり、けなされることがありませんように。オリンピックが東京で開催される2020年のはじまりに、そのことを強く願います。

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