私の信念は、カップヌードルを3分待つことです
カップヌードルを目の前にすると
この子が手元に届くまでの過程を想像してしまう
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「自分がされて嫌なことはしないよ」
そう親からも先生からも言われて育ってきたし
実直に守ってきたつもりだった。
中学1年生になりたて、
はじめての夏休みが訪れる少し前のこと。
私は大好きなディズニーに仲良し3人組で行く約束をした
そのうちのYちゃんがお母さんから子どもだけで出かけるのはだめと言われてしまい、どうしても遊びたかった私たちは作戦を練る
本当に色々やった。私の母が同伴することを提案したり、それも却下されてからは友人の私たちからYちゃんのお母さんに電話でお願いしたり。
結局ダメだった。行くことを諦めようとしているとYちゃんは2人で行って来なよと快く送り出してくれ、その言葉の通り私たちは2人で行くことにした。でも普段3人でいるときにその話題をすることはほとんどなく時々待ち合わせのことなどを軽く話す程度だった。
数ヶ月経ったころYちゃんは学校に遅刻してきたり
時たま休むようになった。
突然家にかかってくる担任からの電話
「Yちゃんのお母さまから仲間外れにされたストレスで
入院することになったと聞きましたが...」
「こんなのめちゃくちゃだ」
本当に意味がわからない。ただそれだけの感情だった
いつも私を叱ってばかりの母でさえこれには共感してくれたくらい。
きっと「2人で行って来なよ」という言葉はうわべで
本心では3人で行けないなら行かないって言ってほしかったのかな
当時も今もそう解釈するしかなかった
ぶっちゃけ私だったら彼女の言ったうわべの言葉が本心から出るだろう
でも彼女は違った Yちゃんが嫌だと思うことをしてしまったんだ
私のとった行動が彼女を傷つけてしまったのは変えられない
「あー人がされて嫌なことが私がされて嫌なことと同じとは限らないし
私がされて嫌なことが人がされて嫌なこととは限らないんだな」
12歳のわたしには重すぎる気づきだったけれど
自分の立場で相手の心を想像するんじゃなく
相手の立場で相手の心を想像すること
どうしても人は自分の中にある知識とか経験とかの資源から
一番いいと思うことを選んでしまう
でも本当の思いやりは
その人の背景に思いを馳せること
なんじゃないかなって
私の話は少々複雑なように思えるから
例えば電車の優先席に若者がドデーンと座っていたとする
目の前に背中を曲げた年配の方が立っている
気付いているけど立ち上がりたくないのか、スマホに夢中で気付いていないのか分からないけれど若者は動かない
きっと周りの人が見れば"あり得ない"光景で
鋭い眼差しが注がれるだろう
でも少しの想像力を働かせれば
見えづらい疾患があるのかもしれない、貧血持ちで朝から立っていられないのかもしれない、夢に夢中で僅かな睡眠も取れていないのかもしれない...
考え始めたらキリがないし本人に正解を確認することもできないけれど
コイツは思いやりがないなんて他人が決めつけることはできなくて
ただひたすらに目の前の人はどんな考えでこの行動をしたんだろうって
考えてみるだけ、もちろん本人に本当の意図を聞けるに越したことはないのだけど。
長々としてしまったのでタイトル回収。
私はこの出来事があってからとにかく相手の身になって想像力をフル回転させるようになった。
その最上級が カップヌードルの製造過程を想像すること だったってわけ
自他ともに認めるせっかち人間なので本来なら3分きっかり待とうなんて思わないのだけど
”熱湯を注いで3分”
とわざわざ表記するくらいなのだからきっとそれくらいの時間が美味しくなるように作られているに違いないしこの子が手元に届くまでどれだけ多くの手間がかけられているか考えてみるとせっかくだから一番いいタイミングで頂こうと思える
カップヌードルの工程に思いを馳せること
こんな感じかな。笑
ほんのすこしのこだわりに大事な価値観が詰まっている
そんなお話でした。
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