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一昨日・昨日・今日

 ここ数日と今現在の気持ちを残しておくためのnote。

 ロシアが核抑止部隊に指示を出したという話をTwitterで見たのは一昨日の夜だった。その晩は、明け方まで眠れなかった。

「な、な、」
「何言ってんのP?」

 何かが起こっているのに気付いたきっかけは、Twitterでフォローしている翻訳者の斎藤真理子さんのそんなTweetだった。「P」が一体何を言い出したのか。その発言の元になったニュースに辿り着いて、私も斎藤さん同様に愕然とした。
 正気じゃない、以外の言葉が出なかった。

 最悪の現実が予測をどんどん追い越していく。世界が巻き込まれて行く。
 自分もこの戦争で死ぬのかもしれないというリアリティの前に、圧倒的な「力」の大きさと、それに対してまったく無意味なほどに小さい自分の存在を思う。最悪の事態が起こって、人生がぷつりと途切れることを想像する。家族に何か伝えておかなくて後悔しないだろうか。やり残したことがまだある気がする。眠気で意識が強制シャットダウンするまで、ずっとそんなことを考え続けていた。

 結局あまり眠れないまま、翌日の月曜日を迎えた。もちろん出勤日だ。
 私は普通の勤め人より遅い時間の通勤なので、出かける時間には人出も落ち着いていて、住宅街にはのんびりとした空気が流れていた。

 駅までの道を歩いていると、黄色いポンチョを着た二歳くらいの小さな子どもが、道端の石を手に持ってガードポールにカンカンとぶつけていた。金属と石がぶつかる音がする。ただそれだけのことに興味津々の子ども。まだこの世界のあらゆるものが珍しいのだろう。
 母親はすぐ傍でそれを見守っていた。

 そんな音に混じって、ご近所の奥さん同士の立ち話も聞こえてきた。

「組織検査って言うの?先生がね、組織を取って調べてくれたのよ。それでわかったんだって……」
「あらあ、かわいそうに……」
「でもね、仕方ないわよねえ」

 一人は自転車を引いていて、どこかへ出かける途中のようだった。話の内容からすると、誰かが病気なのだろうか。
 家族か、町内の誰かか、それとも飼い犬や飼い猫なのかもしれない。
 どちらにしても戦争とはまるで関係ない、個人的な話だ。
 だけれどそんな会話に、子どもが無邪気に遊ぶ光景に、私は救われるような思いがした。ただの正常性バイアスと言われるかもしれないが、まるで何事もないかのように生活を続けている人々を見て「強いな」と思ったのだ。
 私も今、目の前にある日常をしっかり生きて行かなければ。それだってきっと、ひとつの抵抗の形だ。

 ある人は昨日、日記に「花を植えよう」と書いていた。いろいろ哀しい世界だけれど、今日は土を買ってきて花を植えよう。まるでルターの言葉だ。

Selbst wenn ich wüsste, dass die Welt morgen in Stücke zerfällt, würde ich immer noch meinen Apfelbaum einpflanzen.
(たとえ明日、世界の終わりが来ようとも、今日私はリンゴの木を植える)

 ところで、私が斎藤真理子さんの翻訳を初めて読んだのは、ハン・ガンの『ギリシャ語の時間』だった。
 ある日言葉を話せなくなった女と、視力を失っていくギリシャ語講師の人生の時間が、わずかに重なり合う静かな物語だ。絶望を語る言葉のひとつひとつが身を切るように切実で、その後、私はすっかりハン・ガンに魅了され、『菜食主義者(きむ・ふな訳)』や『少年が来る(井出俊作訳)』も続けて読んだ。

『少年が来る』は、光州事件で犠牲となった人々の鎮魂の物語だ。

 ソン・ガンホ主演の映画『タクシー運転手』の題材ともなった光州事件とは、1980年の5月18日に韓国の光州で起こった民主化抗争のことだ。当時の軍事政権に民主化を求めた市民による蜂起は軍によって武力鎮圧され、その中であまたの活動家、学生、市民らが命を落とすことになった。
 ハン・ガンは9歳までを光州で過ごし、事件発生の数ヶ月前にたまたまソウルに引っ越していた。そのことで、彼女は自分が生き残った者の一人であるという思いをずっと抱き続けていたらしい。
 そして、『少年が来る』という作品の中で、死んで行った者や生き残った者の目線から、それぞれが体験した「光州事件」を書いた。

 詩人の蜂飼耳氏は、『少年が来る』をこんなふうに評する。

政治的な出来事をめぐって、文学の立場が告発よりは鎮魂を選ぶとして、それはいかにして可能となるのか。統計的な数の次元ではなく、個人の声を拾い上げていくことだけが、その方法となるだろう。この小説は割り切れない怒りと悲しみを凝視することをやめない。

 ハン・ガンは、この作品の中で殺された者、弾圧された者が受けた暴力を、虐殺を、拷問を、まるで体験してきたかのように生々しく描いている。
 彼女は、死んで行ったすべての人たちを自分であったかもしれない誰か、自分の友人や家族であったかもしれない誰かとして、その痛みを感じようとし、共に苦しもうとしたのだ。

腐っていく僕の脇腹を思う。
そこを貫通した銃弾を思う。
最初はひどく冷たい棍棒みたいだったそれ、
たちまち腹の中をかき回す火の玉になったそれ、
それが反対側の脇腹に作った、僕の温かい血をすべて流れ出させた穴を思う。
それを発射した銃口を思う。
それを引いた指先を思う。
撃てと命じた人の目を思う。
(『少年が来る』ハン・ガン)

 知らない誰かの痛みを自分のことのように想像すること。私にはそれが、人間性のひとつの極致であるように思える。
 人間が持つ暴力性とは正反対の、崇高なもの。
 たとえ最悪の状況が来たとして、決して消えはしないもの。

 私はそれを信じながら、そして全てが平和に戻るように願いながら、明日も目の前にある日常を生きようと思う。それが何かの種となるように。

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