非力で透明な私たちへ
この前、駅前通りの歩道を歩いていた。駅前とは言っても住宅街なので、夜ともなるとかなり閑散としている。私はその道を、一人で歩いていた。
しばらくすると、前方から30代ほどの男性が三人、並んで歩いてきた。服装は三人ともやんちゃめなストリート系で、体格も良く、どちらかと言うと強面な感じだった。彼らは当然のように歩道いっぱいを塞いで近づいてくる。
とうとう目の前まで来た時、私は咄嗟に商店の軒下に身を寄せ、そこで立ち止まって彼らをやり過ごした。
彼らは私の方など見もせず、ゲラゲラ笑いながら通り過ぎて行った。
私はとりあえずほっとして、また歩道を歩き始めたのだけれど、段々と疑問が湧いてきた。どうして私の方が当たり前のように避けなければいけなかったんだろう。非常識なのは歩道で横並びしているあの人たちの方なのに。
――なんて、理由は簡単だ。私はトラブルになるのが怖かったのだ。相手が大柄な男で、しかも複数だったから。こちらが避けなければ怒鳴られるかもしれないし、すれ違いざま侮辱されるかもしれない。最悪、殴られるかもしれない。私はそういう痛い思いをするよりも、自分から立ち止まってほんの少しだけ嫌な思いをすることを選んだのだ。
悔しかった。どうして男性の集団に対する私の選択肢には、「自分から少しだけ嫌な思いをする」か、「攻撃されて痛い思いをするか」しかないんだろう?
いつから私はそんなふうに、みじめに生きているんだろう?
最初の記憶として思い出すのは、小学校の……確か、四年生とか、五年生とか、そのくらいの頃のことだ。子どもの頃の私は、男子と何でも対等に張り合おうとしていた。ファッション誌にもアイドルにも興味を持てず、女子達の話に混ざれなかった私にしてみれば、カード集めとか、少年アニメとか、面白いものは全部男子が独占しているように思えたのだ。
だから自分も彼らの仲間に入りたくて、男子がやるように相手をからかったり、悪口を言われたらシクシク泣くのではなくて、逆に相手を追いかけ回したりしていたのだった。
しかし、そんな風に過ごしていたある日、私は同じクラスの男子に突然殴られることになった。その日は運動会の前で、グラウンドの小石拾いをしていたのを覚えている。負けず嫌いで褒められたがりだった私は、この手の作業になると一番になろうとせずにはいられず、その日も私語ひとつなく、誰よりも多く雑草を抜き、黙々と小石を拾い、先生に褒めてもらおうとしていた。
けれど、実際に褒められたのかどうかは記憶にない。みんながグラウンドから教室に戻る途中で、なぜか私の方に向かって歩いてきた男子二人のうちの一人が、何の前触れもなく、ボディーブローの要領で、私のみぞおちを殴ってきたのだ。その衝撃と、横隔膜が縮こまって息ができない苦しさと、死ぬかもしれないという恐怖とで、それ以外のことは吹き飛んでしまった。
なぜ殴られたのか、その時は全然理由がわからなかった。
今にして思えば、きっと彼らは、女のくせに男の真似をして出しゃばる私が普段から気に入らなくて、一発わからせてやろうと思ったんだろう。
中学に入ってからも、私の言動は大して変わらなかった。納得の行かないことを黙っているのはおかしいと思っていたし、馬鹿にしてくる相手には負けたくなかった。そんなだったから、同学年の中でも素行の悪い男子たちには、すれ違いざまによく悪態を吐かれた。うぜえ、ブス、勘違い女。容姿をからかわれることも多かった。その度にうるさいと言い返したり、睨み返したりするものだから、余計に状況は悪化して行った。
それでも、高校は比較的偏差値の高い学校に入学したことで、やっと彼らとの縁は切れた……と思っていたら、現実はそれでは終わらなかった。高校を卒業して私がフリーターをしている時、中学時代からそのままつるんでいた彼らが、偶然働いていた店にやってきたのだ。
ワンオペをしている店員が私だと気付くやいなや、彼らは嫌がらせを始めた。大量注文をし、呼び出しボタンを何度も鳴らし、「遅ぇよ」「どうなってんだこの店」と大声で野次を飛ばし続け、とうとう泣き出した私を見てゲラゲラ笑っていた。多分、私はその頃になってようやく、『私はこいつらには一生勝てないんだ』と思い知ったのだと思う。
そういう諸々の経験が、男性の集団に対して「すいませんが、通してください」と主張すらできない私の土台になったのだろう。
もちろん男性の誰もが道を譲らなかったり、殴ってきたり、暴言を吐いてくるわけじゃない。ついこの間だって、人ひとり分しか幅のない狭い路地を通ろうとしたら、向こう側からやってきたキャップを被った同じ30代ぐらいの男性が、私よりも先に立ち止まって大きく道を開けてくれた。ありがとうございます、と私も避けながら会釈をすると、彼も笑顔で会釈を返してくれた。
そういう人もいる。いや、そういう人の方がきっと多い。
だけれど、私の方から「少しだけの嫌な思い」を選ばなければ、執拗に攻撃をしてくる男性というのも、結構な頻度で確実にいるのだ。道ですれ違う以外にも、何度か形を変えてそういう経験をしている。
Toxic masculinity(有害な男らしさ)という言葉がある。
男は男らしく振舞うべき、男はこうあるべきだ、というステレオタイプに強く影響されて、それに沿わない行動や価値観を馬鹿にしたり、排斥したりすることや、その概念そのもののことを指す言葉だ。
たとえば「男は人前で泣いてはいけない」というステレオタイプに従わない人を「弱い」と罵ったり、女を所有物のように扱うことこそ強い男の姿だと思い込んで、女性の人権を尊重しなかったり。
そんな「有害な男らしさ」はホモソーシャル(同性同士の繋がり)の中で深まっていくと言われている。思えば、私をいきなり殴ってきた彼らも、私をブスだと罵ってきた彼らも、みんな男同士の集団だった。
彼らにとっては言いたいことを言うのもやりたいようにやるのも自分達に与えられた「男の権利」で、そこに踏み込んでくる女を許さないのだ。
彼らの前で非力な私たちは、透明な存在になって身を守るしかない。
だけれどこの頃は、そんなふうに思わなければならなかった理由がこの社会の仕組みそのものにあるのだと知った。
それはさまざまな女性が、今までに「これだからフェミニストは」と煙たがられながら、自分の経験や意見を語ってきてくれたおかげだ。
いつまでも怖がっているのは嫌だ。
私は私らしく生きたいし、公共の場で堂々としていたい。
私たちは非力でも、透明でも、一人でもないのだ。
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