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数千倍の死、数千倍の血―映画『ウィンター・オン・ファイヤー: ウクライナ、自由への闘い』
その日の明け方、真っ暗な道庁の階段を伝って、文字通りザアザアと音を立てて流れた血を思い浮かべるたび思います。それは彼らだけの死ではなく、誰かの死の身代わりになったのだと。数千倍の死、数千倍の血だったのだと。
(『少年が来る』ハン・ガン)
ウクライナで起こったマイダン革命のドキュメンタリー映画『ウィンター・オン・ファイヤー: ウクライナ、自由への闘い』を見た。2013年11月、EUとの協定に署名しなかったヤヌコーヴィチ政権に対し抗議するために始まったデモが大規模な反政府運動となり、93日間に渡って続く中で、死者125人、行方不明者65人、負傷者1,890人もの犠牲を出し、大統領辞任によって終結するまでをカメラがとらえたものだ。
衝突が激化していく様子に、韓国で非武装の学生や民間人による民主化運動が軍によって武力鎮圧された光州事件(1980年)を思い出すな、と思っていたら、内田樹氏が同じようなことを言っていた。
帰りの新幹線でWinter on fire を観終わりました。8本目のウクライナ映画は2014年のマイダン革命のドキュメンタリー。デモの市民を機動隊が銃撃する場面は光州事件を想起させて衝撃的です。この時の「不当な暴力に決して屈しなかった」ことが揺るぎない成功体験として記憶されているのでしょう。
— 内田樹 (@levinassien) March 9, 2022
デモが始まって9日目、独立広場で大統領の退陣を要求する民衆を鎮圧するために、政府は特殊警察(ベルクト)を出動させた。彼らは丸腰の民衆を鉄棒で打ちすえ、人々は広場から逃げ出した。しかし、平和的な抗議行動に対する権力の横暴に失望した人々は、再び立ち上がった。そしてデモの規模はさらに膨れ上がり、警察の武力行使が本格化していったのだった。
デモ隊に対し、警察は銃撃とスタングレネード、催涙弾などで攻撃を加えた。中には支給されたゴム弾ではなく、実弾を使う者もいたと言う。救護所には次々と重傷者が運び込まれ、なすすべなく死んでいく人が何人もいた。
血だまりと、地面に倒れ伏す人の姿。あまりに辛すぎる光景だった。
彼らが何のために戦っていたかと言えば、自由と尊厳のためだ。ある人はドキュメンタリーの中で「僕らは奴隷にはならない」と宣言した。彼らにとって自由とは、生きていれば勝手に与えられるものではなく、命懸けでつかみ取らなければならないものなのだ。
8年前も、そして今も。
ウクライナと言う、宿命的な土地に生きているがために。
光州事件を題材にした小説『少年が来る』の中で、作者のハン・ガンはこのように書いている。
2009年1月の明け方、龍山で望楼が燃える映像を見ているうちに、思わずふっとつぶやいたことを覚えている。あれは光州じゃないの。つまり光州とは孤立したもの、力で踏みにじられたもの、毀損されたもの、毀損されてはならなかったものの別名なのだった。
「龍山で望楼が燃える」とは、ソウル龍山区の再開発地域にあったビルで、強制退去に反対する住民と警察が衝突して火災が発生し、入居者5名と警官1名が死亡した事件のことだ。後に、警察による過剰鎮圧と世論操作があったことが公式に認められている。光州事件が過ぎ去り、民主化から長い時間が経っても、権力、暴力によって民衆が踏みにじられ、殺害されるとき、韓国の人々はそこに終わらない光州を見るのだ。
痛みは決して消えず、傷口は何度でも開く。
そしてまた血だらけになりながら、壊されたものを再建する。
それと同じように、ウクライナの民衆もまた、終わらない革命の中にいるのだろう。
ドキュメンタリーの終わりには、女性が「デモの行われた広場では、愛国心と、神の存在を感じて人々が一つになった」と語っていた。その団結は美しく、崇高なものにも見えた。けれど、無邪気にそう感じるのもまた少し危ういことなのかもしれない。
最後にもう一か所、『少年が来る』の言葉を引用しておきたい。
群衆の道徳性を左右する決定的な要因が何なのかはまだ明らかになっていない。興味深い事実は、群衆をつくる個々人の道徳的水準とは別に特定の倫理的波動が現場で発生するということだ。ある群衆は商店での略奪や殺人、強姦をためらわず、ある群衆は個人であればたどり着き難いはずの利他性と勇気を獲得する。後者の個々人は、特別に崇高だったというよりも人間が根本的に備えている崇高さが群衆の力を借りて発現されたものであり、前者の個々人が特別に野蛮だったのではなく、人間の根源的な野蛮さが群衆の力を借りて極大化されたものだと筆者は語っている。
(中略)だとしたら我々に残された問いはこうだ。人間とは何なのか。人間が何かでないために我々は何をしなくてはならないのか。
利他性と暴力性、崇高さと野蛮さ、人間はどちらも本性として持っている。私たちは常に、自分自身の中にあるものと戦わなければならないのだ。
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