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正しさと、姉のこと

 昔、年上の友人がいた。
 彼は長男で、弟がいたのだけれど、どうにも性格が合わず、同じ家にいても口も利かないような関係だったそうだ。お互い独り暮らしを始めてからは絶縁状態になり、連絡先もわからないまま10年以上が経っている、と彼は言っていた。そんなある日、SNSを眺めていたら、どうも弟としか思えない人物を見つけた。試しに連絡を取ってみると本人だったことがわかり、話してみたら前ほど険悪にもならず、その後は良好な関係を築いている、と言う話だった。

 なんだかフィクションみたいな話が本当にあるんだなあと思ったものだけれど、その時の私は、それ以上に、血のつながった兄弟と絶縁するということがあることに驚いていた。
 いくら仲が悪くても家族は家族だろうと言うと、彼は「男兄弟なんてそんなものだよ」と笑った。

 そんなふうに考えていた私の方が、今は姉を含む家族と連絡を断って一年以上になる。姉から最後にショートメッセージがきたのは、数えてみるともう四年前だ。

 姉は昔から何でも要領よくできるタイプで、面倒見もよく、しっかり者だった。人当たりも良くて、裏表がなく、誰にでも好印象を与える。新卒で入った会社の営業職はそんな彼女にとって天職だったらしく、詳しくは知らないが、営業成績は社内でもかなり良かったらしい。
「大きい契約が取れたから、今、結構お金持ちなんだよね」
 そんなことを言いながら、学生の私によくご飯をおごってくれたし、社用車でドライブに連れて行ってくれたこともあった。就活の時、リクルートスーツを買うのに付き合ってくれたのも姉だったし、引っ越しの手続きを全部代わりにやってくれたのも姉だった。そういうのを、一切恩に着せず、てきぱきとやってくれる人だった。

 私も姉が大好きだった。自分と違って社会性が高くて、冗談や話も面白くて、いろんな事を知っている姉を、ただ素直に「すごいなあ」と思っていた。
 だから、姉が結婚して、姪が生まれた時は本当に嬉しかった。赤ん坊に少しでも害がないように、一日一箱吸っていた煙草もすっぱり辞めた。
 出産後の姉は、さすがに育児疲れが見える日もあったけれど、それでも毎日器用に美味しい家庭料理を作り、家の掃除をし、近所のママ友の中でも慕われていたようだった。

 姉はいつも、正しいことを教えてくれる人だった。常識があって、世渡り上手で、真逆の私が世の中のことがわからなくて右往左往している時、いつも助けてくれるのが姉だった。

 いつか姉が、こんな話をしたことがある。
「私の友達に、人を信用できないって言う子がいるんだけど、そういう子に私が、“じゃあ、私の事も信用してないんでしょ?失礼じゃない?”って言うと、黙っちゃうんだよね。本当は泣き言を言いたいだけだから」
 言われてみると、その通りだと思った。私がそうだね、と相づちを打つと、姉は「でしょ?」と、珍しく不快そうな顔をした。
「そうやって相手の良心を試そうとするのって、卑怯で嫌い」

 私がうつ病になり、会社を辞めたのは、姉が仕事の関係で離れた所に引っ越した数年後だった。ほとんどクビのような形で辞めた事を打ち明けると、電話口の姉は無職になった私を責めるでもなく、「次は合う所が見つかるよ」と慰めてくれ、自分は役立たずだと言う私に、「そんなことないよ。頑張りな」と言って励ましてくれた。東京に出張の用事があるから会おうと誘ってくれたこともある。私は約束だけはしたけれど、結局家から出られずにドタキャンをして、鳴り続ける電話の電源を切ってしまった。

 病状はどんどん悪化した。そのうち私は、毎日自分はなんて駄目な人間なのかと思い、「早く死にたい」と思い続けるようになった。だけど死ぬのは苦しそうで怖くて、そんな臆病な自分がまた情けなかった。そう言う日々が続く中、私はトイレの中で泣きながら姉にメールを送った。当時はすっかり部屋が荒れ、ベッドとトイレ以外に足の踏み場がなく、起きている間はずっとトイレに閉じ籠って、一度は辞めた煙草をひっきりなしに吸っていたのだ。

「親にも迷惑をかけていてすみません。私は臆病者で、自分で死ぬこともままならないのですが、死ねる機会が来たら迷わずに死のうと思います。その時は、私の家にあるものは全て業者に任せて処分してください。葬式も要りません、誰も呼ばないでください。」

 姉からの返信は、丸一日半経つまで来なかった。忙しかったのか、呆れていたのか、多分後者だろう。返事はこんな内容だった。

「そんな事言われてどうしろって言うの?助けてほしいならそう言いなよ」

 姉は相変わらず正しかった。
 確かに、今思えば私が言っていたのは泣き言だったのかもしれない。相手の良心を試すような、卑怯な言葉だったのかもしれない。だけれど、死にたくても死ねなくて苦しいのも、嘘ではなかった。私は何ひとつわかってもらえない事に絶望して、それ以上返事はしなかった。

 それからも二月に一度くらいのペースで、姉からのメッセージは届いた。姉として、心配してくれてはいたんだろう。「姪が会いたがってるから遊びに来なよ」とか、「元気にしてるかみんな心配してるよ」とか。だけれど、そういう励ましの言葉をうつ状態の私は受け止められず、ただつらかった。
 そしてしばらくして、実家で飼っていた老齢の猫が死んだと言う報せが届いた。

「大往生だよ。かっこよかったよ」

 与えられた命を生ききるのは立派で、自分で命を絶つとか、死のうと考えるのは「かっこ悪い」。みっともないことだと、姉は伝えたかったんだろう。姉はやはり正しい。
 しかし、私を一番打ちのめしたのは、その正しい言葉だった。

 身の周りの掃除さえできない、食事も食べられない、死にたいと思いたくなくても死にたいと思ってしまう。「正しく生きる」には、私は弱すぎた。正論や、叱咤激励が、私にはプレッシャーにしかならなかったのだった。

 それから二年が経ち三年が経ち、そろそろ四年が経つ。私がずっとメッセージを無視し続けていたため、姉からもあれ以来連絡は来なくなった。

 一方で、二年前、姉の配偶者である義兄が亡くなった。
 まだ若くしての急死だった。

 私はまだ実家に寄りつけるような体調ではなく、主治医の助言で見舞いの葉書を送っただけで、葬儀にも参列することはなかった。その後母から聞いた様子によれば、もともと共働きだったこともあって、一家の生活は何とかやれているらしい。

 義兄はとても良い人だった。姉と同じく面倒見がよく責任感が強く、ユーモアがあり、だけれど物静かで穏やかで、私にもいつも親切にしてくれた。
 姉の家で食事をすると、いつも二人が軽い冗談を言い合うのが微笑ましかった。車を出してもらって買い物に行った時は、運転する義兄の横で姉はいつもずっと起きて話をしていた。

 そんな義兄を失くして、姉はその悲しみをどう乗り越えたんだろう。自分がしっかりしなければと奮起して、相変わらず正しい生き方をしているんだろうか。

 その正しさに押し潰されてしまうことはないのだろうか。

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