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一夜明けても、世界は

 昨日、寝る前に見たニュースの中に、地下鉄の駅の階段に座り込む何十人もの民間人の写真があった。同じ記事の他の写真には、首都から脱出しようとする車の大渋滞の列が、バスに乗り込もうとする人々の群れが、墜落した戦闘機が、爆撃を受けて黒煙を上げる建物が写っていた。

 戦争が始まっている。まだ漠然とした恐怖と、困惑と、世界の大きすぎる流れに圧倒されてしまうような気持ちとで、足元がぐらぐら揺れる。

 それでも眠りに就いたら、日頃の疲れのせいか10時間以上眠ってしまった。昼過ぎに目が覚めて、寝ぼけながらスマホでTwitterを見てみると、まだ暗いキエフの空に、爆発の閃光が走っていた。

 一夜明けても、世界は不穏なままだった。

 何かを考えなければならない気がするのに、うまく考えがまとまらないまま、だらだらとしている間に午後になり、私はとりあえずスーパーに買い物に行くことにした。いつもの休日のルーティーンだ。家を出て、少し散歩をして、食べ物を買って帰る。

 途中ふと、街中にある美容室のことを思い出した。
 その店は全面ガラス張りで、壁には白地に黒いゴシック体で「NO WAR」と書かれたポスターが張ってある。これまではただのアートでしかなかったポスターが急に重い意味を持ち始めたことを、あの道を通る人はどんなふうに感じているのだろう。

 生きている間には起こるはずがないと思っていたパンデミックが起こり、タリバンがアフガニスタンの政権を握り、シリアではいまだに内戦が続いていて、ウイグルやチベットでも多くの人が人権を踏みにじられている。

 私が、私たちが信じていた平和とは、一体何だったのだろう。
 まるで皆でフィクションの世界を生きていたみたいだ。

 それでも、まだ今ここに戦火はない。

 晴れ渡った冬の青空は、嘘のようにのどかだった。この続きのずっと向こうであの閃光が上がっていたとは信じられないくらいに。だけれど、もしこのまま世界が傾き続ければ、公園へ遊びに行くために手を繋いで歩く親子連れは、そのまま地下鉄の駅に駆け込み、バスにぎゅうぎゅう詰めになり、不安に震えながら抱き合うことになるのだろう。

 休日の駅前には、カップルも多くいた。

 家を出る前にもう一度見たニュースでは、ライフルを持った新婚カップルが寄り添って笑みを浮かべていた。

 二人はロシアの侵攻が始まった数時間後に結婚したのだと言う。そして結婚初日にライフルを受けとり、国を守るために戦う決心をした。

当初の予定では2人は5月に結婚式を挙げるはずだったが、自分たちの将来がどうなるか分からなくなったため、前倒しを決めた。

 何も起こらないままであったなら、二人は銃を取ることもなく、5月のさわやかな晴れの日に結婚式を挙げたのだろう。その未来が、もうすでに変わってしまったのだ。
 そういう事態が、今現実として起こっている。

 そう思うと、すべてが不安に思えた。走り去って行くバイクのエンジン音に、車の走行音に、一瞬軍事車両の幻が見えた気がして、心拍数が上がってくる。どうしたらいい?何ができる?そんな問いで頭が一杯になる。

 悶々としながら歩き続けていたら、いつの間にか裏路地に入っていた。
 毎日通るその家の前には、今、白い梅の花が咲いている。清涼な香りに気付いて立ち止まると、花は今日も変わらずに咲いていた。

 白い花。白い色。頭の中にある瓦礫の山。私はハン・ガンの『すべての、白いものたちの』を思い起こした。この散文集のような、詩集のような本の中で、ハン・ガンは「白(흰)」という色を、『生と死の哀しみをこもごもたたえた色』として、白い色をもつさまざまなものについて語っていた。

 その中には、第二次世界大戦で破壊されたワルシャワの廃墟の瓦礫の話があった。その風景から、彼女は生後間もなく亡くなったという姉の「生」を思う。

「しなないで。しなないでおねがい」

 母親の祈るような言葉。生きてほしいという祈り。喪失と、そこからの回復。白い色はそれらを包むように在る。あまりに大きなもの、そしてあまりにもはかない命に対して、私たちは、祈ることしかできないのだ。

 しばらく梅の花を見上げていると、ざあっ、と音を立てて強い風が吹いた。私にとってはただの風だ。だけれど、その風の音ひとつにも怯えなければならない人たちがいる。死と破壊とが、すぐ隣にある人たちが。
 私は今たまたま、それらが見えない程度の距離にあるだけなのだ。

 スーパーでは、白菜と春菊と木綿豆腐を買った。家に帰って、味噌汁の支度をして、煮える間に今これを書いている。書き終えてまたニュースを見たら、すでにキエフで戦闘が始まっているらしい。人が住んでいる住宅もある路上で、銃撃戦が行われている。私はまだ体験したことのない恐怖と、破壊されていく日常への絶望とを、ただただ想像することしかできない。

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