明確化(ジョルジョ゠アガンベン);イヴァン゠イリイチの隣人論;チャールズ゠テイラーによるイヴァン゠イリイチ論
初出:https://d-dean.medium.com/clarifications-giorgio-agamben-3f97dc7ed67c(2020年3月18日)
最終アップデート:これは、コロナウイルスの流行とそれに対する当局の対応によって提起された哲学的諸問題に関する3部構成の記事である。第1部はジョルジョ゠アガンベンのブログに掲載された短い投稿の翻訳である。アガンベンの文章は単独でも読めるが、参考までに、European Journal of Psychoanalysis(欧州精神分析学誌)がここに一連の投稿(と反論)を集めており、この投稿は最新のものだとお知らせしておく。(訳註:原著が書かれたのが2022/3/18だが、2022/3/20に新たな投稿が掲載されているためアガンベンの投稿は最新ではない)
第2部は、アガンベンの小論の示唆に続き、「隣人」関するイヴァン゠イリイチ、そしてイリイチによる「善きサマリア人」の有名な解釈を論じる。「明確化」を書いた時にアガンベンがイリイチを念頭に置いていたかどうかは分からない(「隣人が消されたのに、教会が沈黙しているのは奇妙だ」とアガンベンは書いている)が、イリイチの思索は今日的意味を帯び、重要である。アガンベン自身が以前述べていたように、イリイチの思想は時と共に徐々に「読みやすく」なっている。それだけでなく、いっそう現代的で、なおさら緊急性がある。私は、どちらかといえば、こうしたことを述べている人達に同意したい。
最後は、チャールズ゠テイラーの文章の長い引用である。彼は様々な場所で独自にこの論を唱えている。テイラーは、3人の哲学者にとって重要な主題を扱いつつ、「われわれの文明は、--歴史に先例がないほどの規模で--苦しみを和らげ、人間の福祉を増進することに深い関心を抱く文明である」と書きながらも、この関心は「同時に、われわれを異星人めいた非人間的な存在へと変化させる諸々の形式の牢獄に閉じ込めようと脅かす」(邦訳書、17ページ)と述べる。
欧州精神分析学誌はアガンベンがブログで始めた最近の公開論争の背景としてフーコーを取り上げている。私はここで、伝染病に関するアガンベンの最も印象的な最新ブログ投稿を翻訳して示すと共に、この論争と現在の危機双方を理解するための「イリイチ派(Illichian)」の背景もしくは枠組みを指摘しておきたい。
ジョルジョ゠アガンベン:明確化
伝染病がこの国に投げかけた倫理的混乱に関する私の考えについて、最近、あるイタリア人ジャーナリストが――その職業ではよくあることだ--私の考えを歪めて改竄して発表した。私が示したのは、この国ではもはや死者に対してすら何の敬意も払っていない、ということだった。著者の名前を示すよりも、この誤解を詳しく扱う方が重要だろう。「接触感染」のテキスト自体は、お望みならば誰でもQuodlibetのウエブサイトで読めるので、ここでは、新たな見解を幾つか示すだけにする--明快に示したところで、またしても曲解されるだろうが。
恐怖は下手なカウンセラーだ。だが、人が見て見ぬ振りをしてきた多くのことを明らかにしてくれる。現在この国を混乱させているパニックの波は、第一に、次のことを明示している。現代社会ではもはや剥き出しの生以外何も信じられない。イタリア人は、病気になる危険に直面して、実質的に全てを--普通の生活条件・社会関係・仕事、そして友人関係・愛情・宗教的信念・政治的信念すらも--犠牲にしようとしている。剥き出しの生、そしてそれを失う恐怖は、人間を団結させない。逆に、人間を盲目にし、分断する。マンゾーニが書いたペストのように、今や他人は保菌者かベクターかもしれないとしか見なされず、あらゆる犠牲を払ってでも接触を避け、少なくとも1メートルは離れていなければならないものとされている。もはや死者--私達の死者--に葬儀される権利はないのだ。愛する人の死骸がどうなるかは分からない。隣人が消されたのに、教会が沈黙しているのは奇妙だ。どれほど続くか分からないまま、このような生活に慣れ切った国の人間関係はどうなるのか?生存以外の価値観を持たない社会とは何なのか?
この伝染病が明示する第二の事柄も、最初のものと同じように憂慮しなければならない。政府は長年私達を例外的状態に慣れさせようとしてきた。この例外的状態がまさしく普通になっているのである。過去、もっと重大な伝染病があった。しかし、現在のように緊急事態が宣言され、転居すらも禁じられるなど誰も考えなかった。私達は絶え間ない危機と絶え間ない緊急事態の情況で生きることに慣れ切ってしまった。だから、生が単なる生物学的条件に還元され、社会的・政治的次元--人間的次元・感情的次元さえも--が失われていることに気づかない。恒久的緊急事態の中で生きる社会など、もはや自由社会ではない。実際、現代社会は、いわゆる「安全保障問題」のために自由を犠牲にし、絶えず不安と恐怖に満ちた状態を自らに課している。
ウイルスを語る際に戦争が引き合いに出されるのは当然だ。実際、緊急対策は外出禁止状態の生活を私達に効果的に強いている。しかし、目に見えない敵、自分以外の全員の中に潜んでいてもおかしくない敵との戦争など、最高にバカバカしい。実際のところ、これは内戦だ。敵は外にいるのではなく、私達の中にいるのだ。
この懸念は現在というより--もしくは、現在だけでなく--今後に関わっている。戦争は、有刺鉄線から原子力発電所に至る一連の有害なテクノロジーを後世に残してきた。同様に、非常に高い確率で、緊急事態が終わった後も、現在行われている様々な実験(過去の政府が実行できなかった実験)が続くだろう。大学と学校が閉鎖され、オンライン授業に変わるだろう。政治的・文化的懸念に関わる集会や私的議論が断固として中止され、こうした会話はデジタル手段に移行させられるだろう。人間同士のあらゆる接触--あらゆる「伝染」--の代わりに、可能な限り機械が導入されるだろう。
2020年3月17日
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「隣人が消された。」だが、「曲線を平坦にする」目標も隣人愛の表現ではないのか?この目標を達成するには、個人的接触を徹底的に断ち切り、葬儀禁止などの方策を講じなければならない。こうした方策は弱者・病人・高齢者を保護しようとする。人命を大切にせよという至上命令は--社会的・政治的水準で構想され、訓練を受けた専門家などの権威者が指示し、「公衆衛生」アプローチを見ればすぐ分かるものの--隣人愛と同義ではないのだろうか?
「隣人愛」言説の原点である「善きサマリア人」の寓話を見れば、少なくともこの観点を複雑にしている内容を見つけられる。この寓話でアガペーを例示しているのは孤独な人、サマリア人である。サマリア人は、怪我をした病気の旅行者--ユダヤ人--が道路脇に倒れているのを見つけ、その汚れた身体を自分の家畜に乗せる。サマリア人は旅行者の身体を洗い、宿屋に連れて行き、食事を与え、介抱する。外集団の成員をこのように手助けする責任も必要も特段なかった--イヴァン゠イリイチによれば、ここが寓話の要点の一つだ。このサマリア人は内面から突き動かされて危険を冒したのであって、危険を最小限にしようとしたのではない。サマリア人は、不安になって誰か他の人、地元当局にこの問題を報告することもしなかった。寓話では、サマリア人の前に、祭司とレビ人も死にかけた異邦人の横を通り過ぎていた。彼等が自分の見たものを相応に気の毒に思わなかった--もしくは、いわば所定の電話をかけなかった--と考える根拠はない。サマリア人は、命令・規範・期待--「ソーシャルディスタンス」の期待も含め--を踏み越え、異邦人との極めて親密でこの上なく個人的な接触をするために動いたのである。
二つのパラダイムの違いは大きい。それぞれの論理は全く別に働き、異なる判断や決定を、少なくとも、イタリアで実際に布告されたように全ての葬儀を禁止するかどうかといった憂慮の領域を導くようだ。この事実をどう考えるのか。そして、これらの明白なつながりをどう考えればいいのか。私の理解では、こうした疑問こそアガンベンが述べる「倫理的混乱」の骨子なのだ。
イヴァン゠イリイチはこの混乱の歴史的起源を詳しく示している。彼によれば、それは中世に出現した。当時、教会は、病院などを建設しながら、アガペーを制度化した。キリスト教は徹底的無力さを強調するが、これを強調せずに愛の倫理を実現する活動が強力な機関--教会、後には近代諸機関と完全な専門家階級・管理者階級--を生み、こうした機関がアガペーを後ろ盾に無力な者のために社会的・政治的権力を行使するようになった。この必然的帰結が、「サーバントリーダーシップ」のような見え透いた現代的理不尽、あらゆるお馴染みの矛盾した論説・矛盾した成果である。
私自身の言葉をさらに述べる代わりに、ここでは、イリイチに関するチャールズ゠テイラーの一節を引用する。テイラーは述べる。「イリイチは、彼の全体的ヴィジョンと彼の議論を支える歴史的細部を透徹する理解に立って、われわれが現在行っている、自分を脱中心化し、物事すべてを対象化し、人間関係全般を脱身体化するやり方で何が危険に晒されるのかを理解する新たな道を拓いてくれる。そしてイリイチは、単純に反近代主義のお定まりの舞台装置に落ち込むことなく、それを行うのである。」(邦訳書、17ページ)
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チャールズ゠テイラー:『生きる希望--イバン・イリイチの遺言』序文より
(デヴィッド・ケイリー編、臼井隆一郎訳『生きる希望--イバン・イリイチの遺言』藤原書店、2006年、13~18ページ)
ラテン西欧のキリスト教世界では、この試みは、キリスト教中心的で、かつ、信仰と行為にもっと個人的に関わる宗教を万人に押しつけ、以前の集団的な儀礼行為の「魔術的」ないし「迷信的」と見なされた形式を抑圧するために、それどころか廃絶するために、なされたのであった。
これが新ストア派的外観と同盟を組んで、社会秩序の新たな形式を確立するための一連の試みの自由通行手形となった。これらの試みは、暴力と無秩序を制限し、比較的平和で生産的な職人と農民からなる集団を創り出すのを助けた。人々は徐々に信仰的実践と道徳的行動の新しい形式へと誘われた、ないしは、強制されたのである。これはプロテスタントのイギリスやオランダでも、後のアメリカ植民地でも、反宗教改革のフランスでも、あるいは警察国家(ポリツァイシュタート)のドイツでも、事情は同じであった。
新しい、市民化された「礼儀正しい」秩序の創出は、最初の創始者たちが望んでいたよりもはるかに大きな成功を収めた。そして、これがまた翻って、キリスト教的秩序とは何であるかの新たな解読に道を通じた。その一つはますます「内在的」なものと見なされた。(礼儀正しい、市民化された秩序こそ現にキリスト教的秩序である。)このヴァージョンのキリスト教は、その「超越的」な内容を多く失い、そのようなものとして新たな出発に身を開いた。その世界では、良い秩序--現代の道徳的秩序と呼べるもの--の理解が、元来の神学的、摂理的枠組みの外部で、ある場合にはそれに逆らってでも(ヴォルテール、エドワード・ギボン、そして別のやり方でデヴィッド・ヒュームのように)採用することが可能となったのである。
西洋文化の世俗化と、実際、しばしば見受けられる神信仰の不在は、個々の権利を有し、相互の福祉のために行動すべく(神ないし自然によって)運命付けられた諸個人からなる道徳的秩序へのこうした信仰と緊密に共生する形で立ち現れた。この新秩序はこうして、以前の、戦士を賛美する名誉倫理を投げ捨てもすれば、どんな超越的地平を塞ぎもしたのである。(こうした見解のすぐれた定式化はジョン・ロックの『政府に関する第二論文』にある。彼はそこで、統治権威の人間的起源を論じている。)秩序のこうした理解は、現代西欧で支配的な社会的想像力にその深部で刻印を与えているのである。いわく市場経済、公共領域、主権在「民」である。
これが、世俗化に関するわたしなりの説明の大筋で、イリイチも基本的に同意するであろう。しかし、彼はそれをキリスト教の堕落として記述する。例として彼は繰り返し、あの善きサマリア人の良く知られた譬え話を引用する。傷ついたユダヤ人を助けるよそ者についてイエスの語る話である。イリイチにとってこの物語は、見知らぬ同士である二人の間の相互的共属関係の可能性を示している。イエスは、サマリア人と傷ついた男の間の新しい「ぴったりと相補い合う関係(フィットネス)」を指差すのだ。適合し合う二人の創り出す均衡は神に由来するものであり、アガペーのそれであり、それが可能となったのは、神が肉となったからである。神の受肉は外に向かって広がり、サマリア人がユダヤ人と結ぶこうしたリンクを介して、われわれが教会と呼ぶネットワークをつくり出す。しかし、これはネットワークであり、一定の範疇に基づくグループ化ではない。つまり、それはむしろ関係の糸からなる縺れであり、独特でユニークで肉を帯びた人々を互いに結び合わせるのであって、何か重要な所有物を共有する人々を一緒のグループに入れて分類するのではない。堕落が生じるのは、教会が、相互的共属関係という意味で基礎付けられていた初発の動機の失敗と不適切性に反応し、あるシステムを立ち上がらせる時である。このシステムはあるコード、あるいはセットとなった規律を人間に押しつけ、われわれにシステムを動かす規則、そして合理的に構成された組織のシステム--公私を問わない官僚機構や、大学や学校--を内面化させ、われわれが規則の要求するものを実行するのを保障する。これらはすべて、われわれにとって第二の自然となる。われわれは、しっかり馴化された、合理的な、拘束を感じない主体となるために、われわれの生きられた経験、身体的経験からわれわれ自身を脱中心化することに慣れさせられていく。こうしたパースペクティヴに立てば、善きサマリア人の物語のもつ深い意味が明白に立ち現れる。それは、規則を脱して普遍的道徳性に向かう途上の一つのステージなのである。
現代の倫理が浮かび上がらせるのは、(中略)規則と規範を崇拝するフェティシズムの絵柄である。規則という語で考えられるのは、単に法ばかりでなく--イマヌエル・カントの場合のように--倫理もである。法の精神はこの場合、重要である。なぜなら、それはまた一般的原理を表現するからである。カントにとっての原理は、われわれが理性や人間性による調整を合理的動因として第一位に置くことである。それとは反対に、われわれが見たように、アガペーのネットワークはまず特定の人間に対して心底から湧き起こる反応を第一位に置く。この反応は一般的規則には還元できない。なぜなら、われわれは規則に従って生きることはできても、心底からの反応に従って生きることなどできない--「あなたの心のかたくななるが故に」--われわれは規則を必要とする。われわれは規則を撤廃できるというのではなく、現代の自由主義的文明が、規則をフェティッシュとして崇拝しているのが問題なのである。われわれはまず規則や規範の正しいシステムを見つけなければならず、そののち、それらの規則に間違いなく従わなければならないなどと考えがちである。これらの規則が肉を担う人間にフィットするなどという以上に、ぎこちない関係は見つけることなどはできない。われわれは、カーペットの下にもぐり込んで眠らなければならないというディレンマに気付くことを怠っているのである。例を挙げよう。正義対恩寵、あるいは南アフリカの、現行の報復コードの彼方を行く輝かしい試みとも言うべき「真理和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)」で展開されているような正義対新たな関係などである。
こうした見方に立つと、善きサマリア人の物語の決定的な何かが失われてしまう。この規則と規律と組織のシステムによって秩序付けられた世界は、偶然性をただ障害物としてしか、それどころか敵として、そして脅威としてしか見ないのである。理想は、偶然性を支配すること、偶然性を最小限に還元するよう管理の網を大きくすることである。それとは反対に、偶然性は、そのきっかけとなった、わたしの隣人とは誰のことかという問いに対する答えとして語られる善きサマリア人の物語の本質的なモメントである。それは、たまたまあなたが遭遇した、たまたま傷を負って路傍に横たわり、たまたまその上に躓いたその人かもしれない。純然たる偶然性が手を貸して、しっかりと均衡の取れた反応を作り出すのである。それは、われわれのこの上なく根深い疑問に答える何かを語っている。これこそがお前の隣人なのだと。しかし、これが聞こえるためには、われわれは、偶然性をただ管理しなければならない敵対的なものと考える固定観念から逃れなければならないのである。イリイチはこのテーマを(中略)深く掘り下げている。
これがなぜ今日、イリイチの著作がわれわれにとって重要であるかの理由である。わたし自身はそれが有効であるという以上に、人にひらめきを与えるものであるとさえ思う。と言うのは、わたしは長年、西欧の近代に対する機微に富んだ理解を見つけようと仕事をしてきた。これはいかにして近代が現れてきたのかということの説得力ある説明を与えると同時に、その何が良く、偉大ですらあるのか、そして何がそれほど良くはなく、危険で破壊的ですらあるのかについて、バランスの取れた説明を与えることのできる理解である。われわれの現代の状況を、「堕落した」キリスト教から出た副産物とするイリイチの理解は、現代という時代をもたらした歴史的なヴェクトルの重要な一つを捉え、いかに善と悪がそのなかで緊密に織り交ぜられているかを見せてくれる。われわれの文明は、--歴史に先例がないほどの規模で--苦しみを和らげ、人間の福祉を増進することに深い関心を抱く文明であると同時に、われわれを異星人めいた非人間的な存在へと変化させる諸々の形式の牢獄に閉じ込めようと脅かす文明である。本書はわれわれを、近代の、あるいは「啓蒙のプロジェクト」のまわりで押し合いへし合いしている輩のお手軽で騒がしい論争の彼方に運んでくれるはずである。
イリイチは、彼の全体的ヴィジョンと彼の議論を支える歴史的細部を透徹する理解に立って、われわれが現在行っている、自分を脱中心化し、物事すべてを対象化し、人間関係全般を脱身体化するやり方で何が危険に晒されるのかを理解する新たな道を拓いてくれる。そしてイリイチは、単純に反近代主義のお定まりの舞台装置に落ち込むことなく、それを行うのである。
コードは、最善のコードですらも、われわれを暴力との共犯に誘う罠を仕掛ける偶像となることがある。イリイチは、われわれが全身にコードの衣装--たとえそれがリベラリズムの平和愛好という最善のコードであれ、平等主義のヴァリエーションであれ--を、纏うことのないように戒める。われわれは精神的生の中心を、コードの彼方に、コードよりも深部に、生き生きした気遣いのネットワークのなかに見出すべきであろう。これらのネットワークは、コードの犠牲になってはならず、時には、コードを覆すことすらしなければならないのだ。こうしたメッセージはある種の神学に由来する。しかし、それは誰の耳にでも聞き届けられなければならない。
チャールズ・テイラー
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