62日目 考察日記「子どもの幸福度と変な大人と返報性の出口の話」

快晴。

朝から子どもの幸福度に関する記事を読んで、ふいに中学の時のある先生のひとことがよみがえった。

生徒から「先生、怖い、冷たい~。」と茶化された時、「そうだ!俺は冷たい人間だ。お前たち全員に平等に冷たくしている。」と言った先生。

結局人は返報性の生きものなのかな、と思う瞬間がよくある。

やさしくされたから、やさしくする。冷たくされたから、冷たくする。それ自体、何も問題なくない?自然なことじゃないの?と思うかもしれないけど、返報性だけの世界はなんだかケチくさくて出口がない寂しさを感じる。

本業の傍ら長い間、二足目の草鞋として個別学習の塾で子どもたちに教える仕事をしていた。

なぜか扱いにくい子を任されることが多かった。

「扱いにくい子」と評される子の多くは実際に接してみると、大人が作った物事の仕組みに従うより自分の判断で動こうとする自立心の強い子、信用出来ない大人に対してはそのまま信用していないということを態度に出す自分の気持ちに素直な子だった。

つまり、しっかり自分の頭で考えようとしていて、自分の心にたずねながら生きようとしている素直な子たちだ。

逆に返報性の世界を熟知していて、大人に気を遣ってにこにこ従順に扱いやすい子でいる努力を一生懸命にしてくれる子たちもたくさんいた。

どれが駄目とかもないのだけれど。その子たちだってきっと色々なことを感じとって一生懸命生きてきた結果その態度を選択しているのだから、何も間違ってない。

表出しているものは違えど自分なりに感じ考え選んでいるという意味では先の“扱いにくい”子たちと健気さは同じだ。

でも、苦しくないかな、と思っていた。

やさしくされたから、やさしくする。が、いつの間にかやさしくされたいから、やさしいふりをするになって。

息苦しくないかな、と思ってた。

自分の頭と心に正直に過ごしているだけなのに、扱いにくい子、なんて思われて。大人が勝手に向こうから先に関わりづらそうに接してきたからこっちも心閉ざしただけなのに、なんかそんな風に扱われる自分は可愛くない駄目な子なんじゃないか、とか思えてきて。

どっちも出口がないんじゃないかな、と思ってた。

どうしたらこの子たちみんなと平等に接することが出来るのかな、と考えていた。

それはなんというか、返報性を無視すること、態度を変えないこと、この日記の最初に登場する誰にでも平等に冷たい先生の在り方に似ているものだった。

にこにこしたから、甘くすることはない。つんけんしたから冷たくすることもない。だけどご機嫌取りに転じるようなうわべのやさしさも見せない。あれ?この大人は、私がどう振る舞ったかに応じて態度を変える人ではないの?どういうことなの?と、返報性の世界の出口に通じる変な大人になること。

どういうこと?じゃあどうすればいいの?え?まさか!どうしても一緒ってこと?じゃあわたし、どうしたいの?

と、出口に立って、ジャッジする誰かが立ちはだかっていない場所に吹く風を感じてくれる子が一人でも増えたらいいなぁ、と思う。

子どもに接する仕事はやめてしまったけど、親戚付き合いでも地域の活動でもゆく先々でそういう変な大人として出没したい。

変な大人の正体は、大昔の子どもがそのまま体だけ大きくなった、本当は子ども相手でも、相手の振る舞いひとつで人一倍傷ついてしまう弱っちいおばさん、なんだけどね。

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