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青春をSNSに捨てた男の昔話

やっほー。突然だけど自分語りをさせてくれ。
あー、待ってくれ。ブラウザを閉じないでくれ。
本当は現実世界で話のネタにしたいけど、呑みには誘われないし、周りで気軽に会話ができる相手なんか一人も居らんし、話をしたところで誰も相手にしてくれないんだ。
というか気持ち良くないんだ。
分かってるとも。自分でも話のネタがつまんない事くらい。

だからこそ、ここに哀れにも辿り着いてしまったアンタに読んでほしいんだ。
急いでいるなら、閉じて構わない。でも退屈過ぎて欠伸が止まらなかったり、現在進行系でSNSに疲れて辛かったら、ちょっと見ていってくれないですかね?
内容はタイトル通り。かつてTwitterと呼ばれていたSNSの話さ。
念の為に断っておくが、下やら汚い言葉ばかりだよ。

Twitterに手を出したキッカケ

あれは、まだまだスマートフォンが上陸して間もない頃。
iPhoneなんか『4』の時代で、取り扱いはソフトバンクだけの時代。
ようやくAndroidも出てきたが512MBのメモリじゃ満足に動かず、すぐに発熱してエラー吐いて電池切れでお眠りという赤ん坊みたいなモデルばかりの時代だった。気になった奴は『レグザフォン』で調べると良い。しばらく楽しめるぞ。

そんな時代で高校生となった俺は、晴れてより“ケータイ”を買ってもらうこととなった。
もちろんケータイは「防水防塵耐衝撃」とタフネスなNECの…、と願ったのだが親に値段で却下され、当時のケータイ業界で蔓延っていた『0円ケータイ』の選定機種『N-06B』を買ってもらうこととなった。

防水防塵耐衝撃も無し。カメラはお世辞にも取る気にもならない画質で、らくらくホンと見間違う程の筐体デザイン。
外装は少し強めに握るとギシギシと音が鳴る程に柔な剛性しかなく、あろうことか糸くずやホコリが外装に入り込んで引っかかり、終いには外装が捲れてしまう体たらくなフューチャーフォン。
周りはスリムでクールで自分らしさを押し通した携帯電話を所有している者たちばかりで、通話音質と軽さだけが取り柄の機種しか選べなかった俺は、今まで抱えていたコンプレックスと共に無事に爆発した。

そもそも、俺はコンプレックスだらけの人間だった。
鈍臭くて強度近視で頭も悪い、運動も下手くそ、流行りのゲームも下手くそで、片想いの女子に何故か告白前にフラレたり。
馬鹿にされて悔しくて泣きたくなっても、家には静かに泣ける「自分の部屋」の様な場所は無く、食卓で泣くと「泣くな情けない」と言われる始末。
好きなプラモデルを始めても、食事の時間になれば片付けを強制される。
いつも偏食で無駄にグルメな父親が母親に料理に対して小言を言う横で晩飯を喰らう。そこに楽しさだとか、そんなものはない。
新しい事をすれば親に馬鹿にされ、宿題をやるタイミングでドラマを見始めるおかげで手につかず、「自分の部屋が欲しい」と枕を静かに濡らす日々。
嗚呼、叫びたい。泣きたい。怒りたい。幸せになりたい。楽して生きたい。全部滅茶苦茶にして、何もかも消し去りたい。
とにかくもう、そんな「何かをぶち撒けたい」時にTwitterに轢かれてしまったのだ。
違う、出会ってしまったのだ。

だからこそ僕は、キャリアメールでアカウントを作成した。ガラケーではフィルタリングがかかっていたからデスクトップで。
もちろん匿名だ。この時代は『実名を出す』のはタブー視されていた風潮があったからね。いや、なかったかな。

愚痴と悩み&大喜利&爆撃

最初は、やはり愚痴と悩みだろう。
やれ「電車が遅い」だの「アイツムカつく」だの、「人間関係うまくいかん」だの、小さな愚痴や悩み等をSNSどころか掲示板時代から続いてきた鉄板のネタを呟いては、通勤時間帯でごった返す満員電車で時間を潰していた。
当時から俺は、愚痴を溢すというのが嫌いで、そもそも他人の愚痴を聞くのも好きではなかった。そもそも愚痴というのは結局のところ「わかる」と共感が欲しいだけであると個人的に思っているし、母親から散々と愚痴を聞かされていたのも原因の1つかもしれない。
また他人に相談するのが苦手だったし、友人や家族に相談してもテキトーな相槌でスルッと流されて相手の話になってしまう事が非常に多く、「誰も俺の話なんか聞いてはくれない」と悟ってしまったのも要因なのだろう。
だからこそ己でも気味が悪い程にのめり込んだ。
しばらく経って、大喜利のハッシュタグが流れてくるようになった。『こんな〇〇は嫌だ』とか『ハリウッド版コミケ』とか、そんなくだらないハッシュタグに熱烈にハマった。
普段から溜まりに溜まった自分の妄想をぶち撒けても誰も何も言わないし、何より『イイね!』と『リツイート(リポスト)』がもらえたからだ。コメントも嬉しかったが反応があるだけでも最高の気分だった。現実世界で同じ事を言っても、家族や友人には白い目で見られるだろう。
そうしてTwitterにのめり込むと、とんでもない意見を言う奴や狂った思考の者とも出会ってしまう事がある。
現在ならば、他人を傷つけている等と運営会社に『報告』してハイおしまいなのだが、そこは高校生。エアリプをぶつけまくりイイネを大量に送りつける、俗に言う『ふぁぼ爆』もやった。もちろんサブ垢でやって、無事にアカウントを消す事になった。当たり前だ。既にメチャクチャ反省してるので許してほしい。
だからこそ、のめり込んだ。
現実をそっちのけで。

欲望と付け焼刃の意識

高校生活をダラダラと送った後悔まみれで卒業証書を受け取り、何も考えずに社会人になってしばらく経って、俺は欲望を給与で解放した。
そうだよ。18歳になったのだから、“色々”やるだろう?
そんな時にもTwitterは、良質なオカズをオールウェイズ提供してくれた。グラドルやら絵師様をフォローしてしまえば、後はタイムラインに回転寿司の如くネタが流れて来る。そして俺は待つだけで良い。なんてクソったれな男だ。日本を護った漢達が見たら落胆するだろう。いや、袈裟斬りにしてくれるかもしれない。
更に困った事に、自分でも把握していない内に政治家や活動家やらをフォローしていたらしく、タイムラインには右と左の話が飛び交うようになっていた。中途半端な政治知識しかなく、優柔不断で流されやすい当時の俺は、すっかり染まった。右か左のどちらに付いたかは伏せておく。
政治の話は面倒だからね。

殴れば人が集まる

しばらくすると、俺は声をぶつけたくなった。
年齢問わず男に棒状のモノを持たせると何かしらの形で振り回したくなるような感じで、誰かを殴りたくなった。でも、直接殴りにいく度胸はないので、気になる投稿をリツイートして独り言として呟く『空中リプライ』という姑息な手段で他人を殴った。
至近距離の応酬合戦になるリプライでの突撃とは違い、安全圏(では全く無いのだが)から殴る空中リプライは、当時は気持ちが良かった。反撃もなく好き勝手言える凶器を握りしめた姑息で哀れな『ねずみ男』は、日頃のニュースや炎上したツイートをリツイートしてはコメンテーター気取りで言葉を吐いていた。
そうすると、俺に友好的に構ってくれる人が出てきて、それでワイワイ盛り上がり、また何かを叩いて盛り上がり…、の繰り返しを続けていた。
本当にしょーもない事だが、いつの日にか日課になっていった。
相手も人間なのに。
自分も暇じゃないのに。

10年で出来上がった場所は

働いて、呟いて、趣味をして。
それを繰り返すこと10年。
26歳になったねずみ男は、ふと自分が疲れていることに気が付いた。肉体的もそうだが、精神的に疲れていた。
「なぜだろう」と思い始めたところで仕事や地域の町内会の行事で忙しくなり、2ヶ月程Twitterを見なくなった。
行事も落ち着き久しぶりにTwitterに戻ると、眩暈がするような感覚に襲われた。
まずタイムラインの情報量が多すぎる。10年間という長い年月の間に、あらゆる分野を何の気なしにフォローしたので、帰省ラッシュの高速道路の様な…、いやインドの通勤ラッシュの様に情報が渋滞を起こし無秩序な状態になっていた。

そしてタイムラインの内容も酷いものだった。これを表現するとしたら、そうだねぇ…。

『朝まで生テレビの様な白熱した討論会の横で、グラビアアイドルや裏垢女子が裸体を晒し、その周りで哲学者の様な遠い目をしたオタクが悟りを開き金言を一言放ち大歓声が上がったかと思うと、目の前を通り過ぎたプリウスと罪悪感丸出し簡単料理がコンビニに突っ込み、その傍にソロキャンプを楽しむオッサンと、炎上して土下座するユーチューバーが居座り、足元を柴犬や猫ちゃんや動物が寝ころび、裸体を蹴散らす勢いでドリフトをキメる改造車が爆音を轟かせる横でエッチなイラストと楽天カードマンが飛んでくる。』

と、いった具合であろう。
もう『カオス』では片付けられない程で、こんな場所を日常的に見ていた自分に吐き気がした俺は、衝動的にアカウントを削除した。
それと同時に、俺は知らずの内にTwitterに疲れていたのだと感じた。そりゃそうだ、こんな地獄の様なタイムラインを見ていれば疲れるに決まってる。
誰も見たくもねーよ。
それから現在に至るが、思いを嘔吐できない以外は特に問題はない。
一度だけラジオの追っかけの為に再度アカウントを作ったけど、スパム対策の為に少し呟いて、結局ほこりを被って放置されている。

辞めて学んだこと

Twitterを辞めてみて、いくつか学んだ事があった。

  1. ネガティブはジャンクフード

  2. 本質を振り返る

  3. 周りを見てみる

1番目のワードは、感じたままに表現したものだ。
世の中には色々な媒体で不幸な報道や情報が流れている。殆どは目も当てられない不幸な事ばかりだが、条件次第では美味しく感じる時がある。
転売ヤーの爆死だとか悪人が痛い目に合うニュースなんて、近所の町中華のチャーハンくらいには美味いと感じるかもしれない。正に『他人の不幸は密の味』だろう。
しかしながら、甘い不幸も摂り過ぎれば毒となる。身体や心が先に壊れれば良い方だが、問題は『依存』してしまう事だと思う。
ジャンクフードも、一度食べ出すとまた食べたくなる。だって濃い味付けで美味しいから。
ついつい手が止まらなくなり、無くなれば探しに行って、見つけたら味が無くなるまでしゃぶり尽くし、無くなればまたネットの中を彷徨って…。
やってる事はゾンビと同じじゃねーか。
確かに美味しいが、食べ過ぎてしまうのはよろしくない。つまりネガティブな事柄に触れ過ぎるのは良くないと悟った。

2番目は、タイムラインがカオスになった事への反省だ。
何も『SNSをやるな!』とは言わない。SNSは発信するにはこの上なく便利だからだ。しかしながら、何も考えずにSNSを始めてしまっては本末転倒だ。
元来、ソーシャルネットワークサービスは人々の利便性を狙って作られたモノだろう。それを何も考えずに同じ様にダラダラやって他人を叩く凶器にしてはならんのだ。
だからこそ、現状が当初の本質から逸れていないか振り返るべきだと悟った。
俺の場合は『日頃の鬱憤を嘔吐する』のが理由だったが、10年も振り返らずに続けた為にコンセプトから大きく逸脱していた。
見直して見切りを付けたり、ひっくり返す勢いで整理整頓をしたり等、次へと続ける為に『本質を振り返る』という行為は大切なのかもしれない。

3番目は、己の立ち位置の把握として必要な事ではなかろうか。
のめり込む程に熱中すると、どーしても視界が狭くなって目の前の事にしか集中できなくなる。車の運転でも似たような現象が起きるのと同じで、速く走れば走る程に視界は狭まってゆく。
そのまま突き進んでも良いかもしれないが、その極限状態で小さな石ころのような問題に気が付かずに蔑ろにしてしまうと、車両は石ころに乗り上げ、たちまち制御を失ってマグナムトルネードを起こしてお陀仏だろう。
だからこそ、時には速度を落として周りを見るのも大切ではなかろうか。
近くの人間や現状を見て自分が何処に立っているのか、周りを蔑ろにしていないか息抜きを兼ねて顔を上げてみる。一旦距離を置いてみるというのも大切だと悟ったのだ。


さて、ここまで昔話に付き合ってくれてありがとう。如何だったろうか。SNSは確かに楽しいのかもしれないが、本質から逸れてしまえば足を引っ張るモノになりかねない…、のかもしれない。
なんか説教じみた文章になってしまったが、こんな感じで思った事をnoteに丁寧に嘔吐して残していこうと思う。
それではまた次回。


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