「死にたい」というより「殺されたい」

僕には昔からの癖がある。何かと嫌なことがあるたびに心の中で「死にたい」と唱えてしまうことだ。いつから「死にたい」と思うようになったのか過去を振り返ると、あれは中学3年生の時からだったと思う。

高校受験を間近に控えたバケノカワ少年は塾に通い出し上がりもしない成績と周りとの勉強の熱量の差に置いてかれていた。今までの人生で努力という行為を一つもしてこなかった中学3年生のバケノカワ少年は両親からの改まった受験に対する進行度や心構えを諭され世界が急に自分のものではなくなった不自由さを覚えてしまった。努力をせずただなあなあと日々を過ごしてきたあの頃の自由さと自転車で行ける範囲内が自分の全てだった全能感を失い、人生の平均を進むには多少なりの努力が必要なことを知った。世界がガラリと変わったように見えた。正しくは世界が変わったのではなく自分の見え方が変わっただけだということを当時の自分は理解出来ずにいたのを覚えている。何もしなくてもただ過ぎていく日々とのしかかる不安。勉強をやらなければいけない責任感が増えていくのに比例して無為な事に割く時間が増えていった。成績はとても良い方とは言えず後ろから数えた方が早かった。塾にいても頭は常に上の空。もし今この教室にテロリストが入って来たらどうするだろう、誰が1番最初に打たれて死ぬのか。そんなことばかり考え、無駄な塾代を親に出させて勉強した気になり家に帰ってゲームをする。明日から頑張れば良い。まだ受験まで時間はある。言い訳ばかりが上手くなっていく。

そして日々は過ぎ、ついには受験日の3ヶ月前。本当に何にもしてなかった。マジで自分にビビった。1mmも勉強していないのである。いや〜やっぱ俺って凄いわ、やりたく無いことは本当にやらない。これで平均の人生を歩もうとしてることのなんたる図々しさ。その癖強い不安だけは一切消えてくれなかった。眠る前に明日の自分へエールを送って睡眠につく。起きてから午前中は休憩だと自分に言い聞かせて午後から本気を出そうと意気込む。気づいたら夜。あれ?俺何してた?こんな感じ。

ふと思った。「死にたい」と

今死んだら何も努力しないで自分がもう無理だと受験を諦めた訳では無く自分の中の自分という評価を下げずに安いプライドを守ったまま簡単に終われると思った。中学3年生の自分には受験勉強が人生にはこれほど辛いことは無いと考えていた。まだ16年ぐらいしか生きてないのに。

それからは嫌なことがあるたび「死にたい」と心の中で唱えていた。唱えるたびに何故か心が軽くなるのが分かって癖になってしまった。決して両親の前では口から出てしまわないように独り言でも呟き出す。もう止まらない。深くは考えなかった。考えだすと自分の醜さを直視してしまうから。

そこから急に時間が飛んで高校の合否発表の日。

受かってた。

僕は受験前日の日でさえろくに勉強をしていなかった。もう無理だと完全に諦めていたのだ、合否発表はネットで見ればいいと思ってその日は書店で新刊のライトノベルを立ち読みしてた。完璧な現実逃避をかましていたのだが、親からLINEで「受かってたよ」とバイブレーションが響いて僕はこの世全ての不安と重責感から解き放たれる。ニーチェは言った。「神は死んだ」と。生きとるやないかい(千鳥風に)。

時は戻り現在、口癖はこうだ。

「あ〜殺されてえ〜」

僕は気付いたのだ。自分で死ぬより人に殺された方が簡単に人生に諦めがつくと。あ〜もうしょうがねえや殺されたんだったら俺にはもうどうしようもないし諦めっか!ってな感じで。来世は猫カフェで1番良い待遇を受けてる猫になりてえ〜。欲を言えば女性専用の猫カフェで1番可愛い猫になりてえ〜。悪化してた。中学3年生の自分。将来どうなるか考えてたな。こうなるぞ。多分今が一番酷い。

今は大学4年の春休み。友達はみんな就活に勤しみSPIのテスト勉強なんかをしている。あ〜就活したくねえなあ〜空から金が降ってこねえかなあ〜

そんな事を考えながら今日も眠りに着く。時刻は朝の9時16分。どうか将来は巨乳のお姉さんと結婚してますように。明日の俺、頑張れ。



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