自分と同じ価値観の人はいない

初めてタグでの記事に参加してみます。

#一人じゃ気づけなかったこと

はっきり言って、自分が障害者なので、他人との差を多くの人以上に感じていると自負しています。
しかし、よくよく考えてみると、他人との差なんてあって当たり前ではありませんか?
自分と全く同じ考え方をしている人がいる方が珍しくありませんか?

そのため私は、他の人と自分を同一化しないことが、多様性への向き合い方に近いのではないかと思います。

自分は少しストイック過ぎて鬱になったようなものですが、主人から言われて初めて、周囲はもっと他人の期待に応えようとしていないということに気付かされました。
他人に迷惑がかからないように数手先を読んで行動するのが当たり前、中学から大学まで同じ環境でい続けることが当たり前、わからないことやできないことがあったら恥ずかしいと思うのが当たり前。
これらの価値観が、一般には通用しないことが、ここ数年主人と生活していてわかりました。

特に、主人の普段の様子を見ていると、私のさらに数手以上先を読んで行動していますし、元々自分が気が利くなんて思っていたのが馬鹿らしいです。
また、出身も関東と関西とで違い、脳の構造も文系理系で違う人間と結婚したのだから当たり前です。
育ってきた環境、周囲の人間、またその周囲の人間たちの育った環境、それぞれの差は星の数ほどあります。

そのため、他人に少し冷たい態度を取られても、その人の背景が何かあると考えることができるので、怒りが湧かなくなりました。
自分中心に世界が回っているわけではないので、相手を取り巻く環境は自分から見えなくて当たり前です。

なので、“一人じゃ気づかなかったこと“は、街中をすれ違う人誰に対しても、探そうと思えば見つけられるがはずです。


あともう一つ、私の価値観を大きく変えた人がいます。
息子の存在です。

妊娠中から、優先席でなくてもマタニティマークを見ただけですぐに席を譲ってくださる人もいますし、逆につわりで辛くて優先席に辿り着いても眼中にはスマホしかなく、気づいてくれない人もいます(内部障害があるかもしれないのですけどね)。
息子がいなければ、妊娠出産の一連がこんなにも大変で気をつけるべきことがたくさんあることも知ることが出来ませんでした。

また、育児の経験で、エレベーターは足が不自由な人の乗り物という認識に変わりました。
特にコロナ前など、息子が小さくまだ歩けなかった時。
ベビーカーでエレベーターに乗ろうとした際に、ぱっと見は健常者にに見えて近くのエスカレーターでも1つ上の階の駅の改札に行くことができそうな人でいっぱいで、数回エレベーターを見送ったことがありました。
なので、息子が生まれて以来、たとえ夫婦で行動していたとしても、私は階段、主人は息子とエレベーターで、少しでもスペースを空けるように心がけています。

乳幼児連れで行動するときに、こんなにもエレベーターを必要としていて、こんなにも時間を多くとって行動計画を立てなければならないなんて事は、息子が生まれなければわかりませんでした。
現在の歩けるようになった息子を連れている時でさえ、人が多い時はエスカレーターにすんなり乗ろうとしてくれないので、エレベーターを使いたいと思うことがあります。

つらつらと書き過ぎましたが、要するに何が言いたいのかというと、人生たくさん経験をすることによって知見が蓄積され、他人の背景を考えることが出来るようになるということです。
それには、沢山の(不特定多数の)人間と接点がある必要があります。
ただ街を歩いている時も、他人を訝しむ目で見るのではなく、自分の脳内の知識を活用して、どのようにしたらお互いに気持ち良く過ごせるかを考えることが大事だと、私は思います。