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小学校を「休学」して、わかったこと②/学校 or Nothing ?

学校に相談してみたら

まず、僕は子どもたちの”学校に行かない(行けない)”現状について学校に相談してみた。僕にとっては「休学(不登校)」が未知の出来事で、対策を考えるにもその材料が圧倒的に無い。
小学校の先生方は精一杯、誠意を持って対応してくれたと思う。保健室登校をこころよく認めてくれたり、担任の先生が夕方自宅に訪問してくれたり。

しかしどこか僕は学校とのやり取りの中である違和感を感じていた。そしてそれは、話し合いがすべて「学校に行かせること」をゴールとしていることによる、と気がづいた。

そこで校長先生に「学校以外の居場所、行き場所」について聞いてみたところ、なんと「(もうしわけないけれど)そのような情報はありません」との返答だった。これには僕も驚いた。たとえば世間には「フリースクール」「不登校を考える会」etc...などの、不登校の子や親が駆け込んだり相談したりする場所があるはずで、学校がつながっている場所や団体なら安心だと思ったんだけれど‥。

もちろん、ネットで検索すれば見つかりはする。でもなんとなく小学校ならそういう他団体とのつながりがあって、休学児(不登校児ね)に対応してるんじゃないかと想像していた。それが繋がりどころか情報さえ無いという…。
ここまで来て僕は気がついた。学校はもとより、僕らはみんな「学校とは、行くものである。」という目に見えない巨大な前提の上で暮らしているのだと。

学校とは、行くものである。

うちの小学校だって年に一人二人は休学児がいたはずだし、その都度対応してきた経験はあるはず。ましてや、親にとって”教育”においての最大の拠り所、プロ集団はなんと言っても学校なのだ。

小学校は決して怠慢だったわけではないと思う。しかし、「学校とは行くものである。」という前提のもとで小学校も努力してきたのだろう。だからこそ、「なんとかして学校にきてもらう」ことが命題となって、努力や工夫の方向を決めてきたのだ。小学校がフリースクールなどの情報を持っていない、あるいはそういう発想がないのも、この前提がガッチリあるためではないか。

そして僕たち親も(または多くの市民も)「学校とは、行くものである。」という前提を疑いなく信じているからこそ、「学校 or nothing」という基準で、学校に行かない(行けない)子どもを、nowhere へと”追い込んでしまう”のだ。

子どもたちを観察する

僕はその”前提”に違和感を感じたからこそ、学校に行かせようとすることを”注意深く”やめ、まずは子どもたちを観察することにした。「学校へ行くor行かない」を一旦置いといて、子どもたちが何を感じ、何を欲し、何が必要なのか、知っておく必要があると思った。幸い、僕は寺の住職であり、比較的子どもたちと時間を過ごすことができるし、同居している母も極めて元気だ(笑)子どもを安心して家においておける環境に恵まれていたのは本当にありがたい。

ちなみに当の双子は決して”ひきこもって”はいない。普通に家で暮らしているし、祖母(僕の母)と買い物に行ったり、僕の用事について外出したり、朗らかに健やかに暮らしている。

その辺は次回。

追記 お断り

この記事は決して”学校批判”でも”教育論の正解”でもありません。ひとりの親として、休学児(不登校児)と過ごしてみて感じるところを書くものです。
但し、なるべく正直に書きたいと思っているので、現状の制度や学校に対して批判的な内容は含むかもしれません。子供の教育については、読む皆さんがそれぞれお考えになればいいことです。むしろ「本当に考えているか?」を問うきっかけになれば嬉しいです。

サポート、お願いはしませんが、喜んでお受けします。文章を書くことは私にとっての”托鉢”修行といえるかもしれません。