森の寺小屋で、やりたかったのは
森の寺小屋が終わるのは午後4時だけれど、なかなか名残惜しくて解散できないのがしょっちゅう。昨日も解散は午後5時。ずいぶん日も長くなった。春は、それとなく近づいている。
節分と、静寂の恵方巻き
昨日は、節分の豆まきをした。子どもたちより大人が多かったけれど、ご本尊さまにお参りして、それなりに厳かに豆をお供えし、あとはいつもどおり元気いっぱいにw盛大に豆をまいた。
豆を拾いながら年齢の数だけ豆を食べる、ということを話した。最年少の子は2歳。豆は2個。豆まきする前に軽くクリアしていた様子w。最高齢は62歳。豆をそれだけ食べるのも楽じゃないw。そんな話をしていることが、生きている不思議、年をとることについて(あるいは生きること、について)のしみじみした味わいがある。ついついゆっくり話し込んでしまった。
↓節分タイムラプス。なんかただただのんびりしてるなぁ。
恵方巻きの切実
そして簡単にだけれど、みんなで恵方巻きを巻いて食べた。iPhoneの北北西は、ちょうど御本尊様を指している。みんなで恵方巻きを黙食"...。
ふと周りを見ると、みんなが黙〜って恵方巻きを頬張る姿に、なにか哀しみのある切実さを見た。いいことが起きてほしい、幸せになりたい...。そんな願いの切実さと沈黙の中に流れる敬虔さを、重ね合わせた人がいたんだろう。
森の寺小屋でやりたいことは
森の寺小屋は、不登校児とその家族の居場所活動として開催してはいる。かと言って、勉強を教えるわけでもないし、プログラムがあるわけでもない。
じゃあ何してるの?と聞かれれば、「地に足のついた日々の暮らしを、し直している」と言えるのかもしれない。
節分もそう。干し柿を干すのもそう。畑をやったり、田んぼでお米を作ったりもそう。春には原っぱを散歩し、夏には海に飛び込む。秋にはハセがけを手伝い、冬は雪玉をぶつけ合う。
コンビニに行けば何でも売っている。500円でお米も野菜も鶏肉も入ったお弁当が買える。それは便利でいいだろう。
でも、そこには、田植えの温い泥の感触も、稲刈りの黄金の夕焼けも、畑に引いた水の冷たさも、サヤインゲンの支柱に揺れるオーナメントのかわいらしさも、なにもない。ほんとうに、なにも。
自分たちの手で、足で、汗で、虫さされで、日刺しで、木陰で、麦茶で、仮装で、仲間で、ファミリーで、してみて初めて気がつく。コンビニのお弁当には、「なにもない」のだと。
地に足がつき、手に土がつく
何がいい、とはまだ言えないのだけれど、この暮らしている実感はなにかとても大切なもののようなのだ。どこか自分が生きている実感があるような、このさきの人生のある日ふと思い出して、理由もなく励まされるような。
地に足がつき、手に土がつく。そんな暮らしを、し直しているように思う。
それが僕たちと子どもたちをどこに導いていくのか。それはまだわからない。それでも僕の"SONG"は、"こっちだよ"と言っている気がしてならない。
皆さんの"SONG"は、どうだろうか?
では、また。
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