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多様性のトリック

久しぶりにnoteです。

旧暦の正月を迎え、やっぱり少し何か終わり、何かが始まり、世界が入れ替わったような感じがします。

多様性を認めることとは?

最近、多様性を認めることの大切さについて焚き火を囲んで友人たちと雑談をしました。多様性と聞いて思い出すのは(たぶんw)、「みんな違って、みんないい」(金子みすゞ)このフレーズじゃないかなと思います。

みんな違って、みんないい。

うん、もちろんそのとおりだと思うけれど、僕達の多くはあまりの耳障りの良さに、このフレーズをよく噛んで味わってないのかもしれません。

わたし違って、わたしいい

もしも社会の、あるいは他人の(結局自分以外の誰かとなにか)の多様性を全部認めるとなると、これは本当にきりがない。いちいち自分にとって"違う"ものや人に出会うたびに、認めていかなければならない。

でも本当は「自分が、どんなものであろうとと、自分は自分なんだ。これでいいのだ。」と深く納得することが、一見矛盾するようだけれど、すべての多様性を認めることに繋がる可能性が高いように思います。

自分が、どうしようもないほど"自分を"しか生きられないという事実。この自分は、"この、これしかない"という事実。それが腑に落ちれば(あるいは、諦めがつけば)、「彼は、どんなであれ彼でしかない」というふうに、あらゆる多様性に"合点がいく"のではないでしょうか。

ここに、多様性を認めることのトリックがあると思います。

やっぱり自分のことよりあくまでも"他者"のことを考えるほうが気が楽なんです....

だからむしろ、「みんな違って、みんないい」は、「わたし違って、わたしいい」から始めることが必要だと思うんです。

そこを見落とすと、本当の意味で多様性を論じることにはならない。

皆さんはどうお考えでしょうか?

Stand alone, walk together.

簡単なことではないかもしれないけれど、そんなに難しいことでもない。よくよく考えてみれば、自分が自分でしかないなんて、当たり前でしかないのだから。(禅の老師は"屁いっぱつも、他人からは借りられない"と言ったw)

"屁一発でも貸し借り、ヤリトリできぬ自己の生命" 「進みと安らい」内山興正老師

(コロナも含めて)自分の行動を自分で判断しなきゃいけない時代が来てるように感じます。情報はどんどんオープンになり、過剰にあふれている。世の中が価値観や生き方のモデルを決めてくれず、むしろ取捨選択する自分が問われているのです。

(↑でも本来、「生きる」ってそういうことですよねw)

ブッダは、「犀の角のようにただひとり歩め」と言いつつ、「サンガ(修行する仲間)に従え」と言います。一見矛盾するようだけれど、僕はこれを「Stand alone, walk together.(自分の足でしっかり立ち、でも共に歩もう)」と受け取ります。

もちろん、このフレーズは攻殻機動隊からのインスピレーションですw


多様性、そんなふうに考えています。

そうそう、リットリンク作ってみました。


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