見出し画像

イラめき立つ

イライラすることは大事だと思う.
イライラしたからここまでやって来れたと思うし,イライラは感度の高いセンサーだと思う.

今日は,イラめき立つ大切さを説いて,日頃からイライラしてる僕を正当化してあげたい.

こんなにイライラと羅列していると,早速イライラしてきたな(笑)


イライラしている人が近くにいて欲しい

ぼくは何かの集まりの中でリーダーや班長やら,前に出されるときは積極的に,いつも一言多い人の近くに居るようにしていたりする.

どう足掻いても,救われない小言なんかもあったりするけど視座が明らかに高い.

イライラはセンサーだ.イライラしてる人はよく気を利かせてくれるし,イタいところを突いてくれたりして気づきも多い.


だからと言って,イライラしてる姿ははたから見たらイイものじゃないから気をつけないといけない.イライラしはじめたら,冷静に解析して課題を分離して情報に変換する.感情は出力しない.これは大事.

“優しい”と言われる人は瞬時にイライラを処理をしているから,はじまりがイライラの感情だという自覚もないんだろうなと羨ましく思う.


イライラが報われるとき

ぼくは日頃,何かをつくっている.

デザインでもイライラしなければいけない.映像編集でもイライラしねければならない.これに関しては慢性的なイライラが必要だ.

デザインは1ピクセルが大きすぎて分割したい衝動に駆られないとだめだと思っているし,映像は映像で“間”を意識して1秒間を無限に分割したい衝動に駆られないといけないくらいに思っている.

1ピクセルを分割したくなって解像度を高く設定しても,データが重たすぎて実際には使いものにはならないし.映像はそもそも規格があり,それ以上分割しても印象に影響はないとされている.

つまり,自意識過剰だったんだ.

でも,この無意味なイライラがときに作品の質として,作品の切り口として昇華することがある.

そんな瞬間があるから,なんだかんだでこれからもイライラしとこうと慢性的に思う.


文言/うめの瑳刀
写真/Jr

のらりくるりと芸術大学中退. 1998年製. 空気を画素におとしこもうと風景をパシャり.二次元(平面)と三次元(立体)の次元間の往来を主題に作品を制作しています.また言語バイアスによる対象からの各個人の情緒レンダリングを試行しております.