コトバを残すための場所

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最近の記事

たぶん、わたしは悲鳴を上げている 1週間、居場所に行くことと修論を進めるぐらいしか予定がない なにに悲鳴をあげることがあるんだよ、 相談する人がいないという話 もっというと、相談したいと思える人がいなくなった はなせば、すぐに広まることを知った いや、知っていただろう、学校という場がそうだっただろう、地元の人間がそうだっただろう、 知っていた、知っていたけれど、そこから出会ってきた友人たちにそんな人はいなかった だから忘れていたのだとおもう 言わない、言いたくない、これが

    • 家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった、ドラマみた感想メモ

      すべてがその人の選択 それは自己責任という話ではなくて、他者からみて「こうしておけばよかったのに」とか、「その選択しかなかったのね、可哀想に」とか、そうゆうのではなくて、もうそれが、そうすることがその人の選択であるということ

      • 汝、星のごとくを読んでの取り急ぎの感想

        ヤングケアラーの話、毒親の話、親ガチャの話、そんなものでくくることができないとおもう どこにも還元できない、かれらの人生だった 愛は地球を救う、ちがうよね。そこにある「愛」とかれらの知っている愛はちがうんだよ うまく説明できないというのもそうなんだろうな、とおもった 言葉にしないでいてくれてありがとうの気持ち

        • わたしの音楽話

          きょう、はじめてアルメニアの音楽に触れた 音楽つながりとして、ここ最近のわたしの音楽事情について少し話してみようか わたしは、比較的音楽は好きな方だと思っています 聞き専ではありますが、歌うのも大好きです。音痴ですが。 よさこいをやっているのですが、身体表現もとても好きです 曲を聴いていると自然に足踏みしてしまったり口ずさんでしまったりと、公共の場でもかなりやってしまうタイプです ただ、聴く曲にはかなり偏りがあるタイプです。特に聴くのは推しのアイドルのグループの曲です そ

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        • ふとした時に読み返したくなるのでは
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          朝ドラをみての話し

          朝ドラについて書きたいの わたしは見る度見るたび情緒が狂わされ、あーしんどい、むり、早く見たい、みたいなことを永遠に繰り返してる ともことゆみという母娘関係。それを取り巻く人達。もう私のあのドラマの観方は完全にそうなっちゃってるのね、今の回では。そして、自他境界がゆるくなっちゃうんだねえ、色々重なるからねえ ちょっと前は、ゆみをみるのがしんどかった もちろんどちらの立場もしんどいの。でも、これまではゆみばかりに哀しみを感じて、ともこに怒り狂っていた なぜ完璧な私しか求め

          6月に推しが卒業してしまった話

          6月はなんか目まぐるしかった 一つはタイトルにある推しが卒業してしまった話。高校生の時からの推しだった。 なんだろう、かのじょは、ある意味で「アイドル」としての推しだったと思う。ステージのキラキラさ、ゆたかな表情、踊りがもつ表現。すごくありきたりな標語ですが、当時はかのじょが持つ「アイドル性」に惹かれたんだと思います。 それは今の今まで変わらないんだけど、一つ変わったことといえば、かのじょの「表現」は、歌、踊りといったパフォーマンスのみで完結できるものではなかったということ。

          6月に推しが卒業してしまった話

          泣かなかった話

          昨日ポケモン映画を見てとてもしんどくなった話。 もともとわたしは感情の起伏がえげつなくてですね。ずっと隠し続けてきたつもりだったんだけど、全然表に出てますよ、ということに最近になってようやく気づくようになってきた。 そのなかでもとくに涙を出すことには躊躇してきて、家で一人でいるときでも流さないようにしていたんだけど   昨日久々にポケモンの映画を見たんです。セレビィーという時渡りポケモンの映画を。 「泣きましたね」と来るかと思いきや、「泣きそうでした」。そう、泣きません

          自炊が美味しくない話

          こんにちは。 最近ヲタ活のおかげで貧乏学生をしておりまして、自炊するほかなくなっています。 自炊、といっても、決まったものしか作りません。冷蔵庫にあるものを炒める、そのまま食べる、レンチンする。 この三択ほどです。 また、調味料も、①醤油と蜂蜜②塩と胡椒(たまに生姜)③トリガラスープの素④最近やっとマヨネーズを買ったのでマヨネーズと白ごま これぐらいですかね。 食料も決まっています。 ①ちくわ②ささみ③カット野菜半額のやつ④鶏ひき肉⑤納豆⑥豆腐⑦卵⑧ブロッコリーとほうれん

          ポケモンは存在します

          最近ゲーム実況を観ることが増えた。 スイッチを買おう買おうと思い続け、約4年が経った。おそらくもう買わないだろう。 最近みているのはポケモンのゲーム実況だ。実況内容は正直どうでもよくて、ただただストーリー全体が知りたい。単にポケモンがすきだから。 わたしは未だ、ポケモンと人間が共存する世界がどこかに存在していると信じているところがある。なにかロンリネスを感じても、「まあわたしにはポケモンがおるし」という謎の安心感がわいてくるのだ。 何が言いたいかというと、サンタはいないと

          ポケモンは存在します

          なんかちょっと意見書いてみる

          アンという名の少女 シーズン3-7にアン含む生徒たちが「FREEDOM OF SPEECH IS A HUMAN RIGHT」といったスローガンを掲げ、評議会の男たちに立ち向かうシーンがある。もちろんそれら男たちは、それに対し反抗する。そして生徒の教師に向かって「止めろ」と指示する。それに対してその教員が放ったことばがとても魅力的だ They are not children.They are not out of control. 言論の自由については、とても難しい部分

          なんかちょっと意見書いてみる

          めも

          キョリを置くこと、正解を教えてもらうこと わたしのニーズは今ここにある ただ言葉で伝えられないので、キョリを置くというのがほんとうに0になってしまうんだよな 時間が経ったら戻ってくんだけど、その次は100になってしまう 人との詰め寄り方がわからない 大学院でもこれに苦しむとは思わなかった 一人でもっと自由なんだと思ってた 自由なんてどの場所にもないんだなと思う

          居場所活動について考えること

          こぼれ落ちる声を拾う可能性が広がる場が居場所活動だと認識している のはそうだと思うのだけれど 先生でも親でもなく「スタッフ」に話すということがどういう意味を持つのかを考えると プライバシー、守秘義務が守られる、関係のない人だからこそ話せるという部分が大きいのではと思う 拾う先への支援へと繋げるのであれば、秘密が秘密であることが担保されない じゃあどうしたらええの????すごく気持ち悪いんやけど 

          居場所活動について考えること

          映画に救われるということ

          昔の洋画を観る事が増えた。 オードリー・ヘップバーン、ジュディー・ガーランド、マリリン・モンロー 定番どころばかりだが。 当時の情景が好きというのもあるけれど、わたしは彼女たちが生きていた事実があるということで、今から逃げれているのだと思う 過去があった、そこに生きていた人たちがいた、ということ、それに救われるということ、

          映画に救われるということ

          めも(イン研究室)

          「研究してると、あれもこれも、書きたい、ってなっちゃうよね。そんで、膨大な量の、しかも複雑な論文になっちゃうんだよね」 同じ研究室の院生さんが言ってた言葉 今の私はまさしくその状態でいるんだろうなと思った。 でも、一つ違うのが、「書きたい」ではなく、「知ってほしい」という思いが強いということ 「私はこんな事も考えてるよ」「そこにはこんな批判が来るんだろうけど、その批判に対してもこのように考えてますよ」みたいなのを、とりあえずことさら全部知ってほしいって思ってしまう 卒論の結

          めも

          どうしたって怒るときは怒るし、悲しいときは悲しいし、抱いてしまう感情に背徳感を抱える必要はない けれど抱いてしまうのは現状としてあって、じゃあどうしたらいいのかという話  それを他者に直接的に伝えるということはできないし、できないから自分が我慢して溜め込んで自傷行為で消化させる これまではこれでいいと思ってきたけれど、さいきんになって、この自傷行為が、他者を巻き込んでしまっていることを知るようになった(摂食になったおかげかもな、とも思う) 話が戻るけれど、怒りや悲しみの感情

          ぴえん

          違和感が拭い取れない 語りを語りのまま置いておきたい 私が人の経験を分析とか考察とか、できない、というか、したくない気持ちが、ちょっと卒論落ち着いて、沸き起こってきた これまでいろんな授業とかゼミを受けてきた中で(私からみたらわからないけれど)今回の分析は失敗に終わった、って声を聞いたことがある 科学的な研究に失敗はあっても、人の経験を用いた研究に失敗なんて存在してほしくない、し、研究する側の責任として置いておいてほしい。いやそのつもりなんだと思うけれど。