めも

どうしたって怒るときは怒るし、悲しいときは悲しいし、抱いてしまう感情に背徳感を抱える必要はない
けれど抱いてしまうのは現状としてあって、じゃあどうしたらいいのかという話 
それを他者に直接的に伝えるということはできないし、できないから自分が我慢して溜め込んで自傷行為で消化させる これまではこれでいいと思ってきたけれど、さいきんになって、この自傷行為が、他者を巻き込んでしまっていることを知るようになった(摂食になったおかげかもな、とも思う)

話が戻るけれど、怒りや悲しみの感情の奥底には「願い」があるという考えがあって、わたしはその考えがとても腑に落ちた 
でも、いや、「願い」という名の「期待」なのかな
誰かに対しての怒りは、わたしが、こうしてほしかったという願いであり、でもそれは裏を返せば、〇〇してくれると思っていたという期待でもあったんだな、と。そうおもうと、勝手に「期待」していたのは、わたし自身の奥底にある価値観的なもの、自明性的なもので。そんな、私自身が勝手に抱いてしまっている価値観的なものにそぐわなかったものがくると、あー裏切られたんだと思って、それが、怒り、悲しみに繋がってしまうんじゃないかと思った

なにが書きたいのかわからんくなったけど、どうしたって抱いてしまう感情を、受け止められるようにしたいというのと、自傷行為で消化させるのではなくて、でも他者もわたしもどちらもが傷つかない方法で、降ろせるようにしたい


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