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それでもあなたは自分が私の父親だと言う 序章~第一章


序章
 小春日和の午後、運動場の奥の2階建て校舎の背には雲一つない青空が広がっている。日はまだ高い。
 校舎中央の生徒用の入口からは子どもたちがわらわらと出てきた。みな、ランドセルがまだ大きい。小学1年生の下校時間になっていた。歓声を上げる子たち、にこにこしている子たち、正門に向かって運動場を駆けだす子も少なくない。

 しばらくして、ピンクのランドセルの女の子が出てきた。一人ぼっちだ。入口近くの花壇には目もくれずに女の子は早足のまま、運動場を横切っていく。派手な黄色のワンピースとは裏腹に、その表情は今にも泣きそうだ。
 女の子が正門に差し掛かろうとした時、
 「待って。ちょっと待ちなさい。」
 一人の女性が女の子を追ってきた。淡いグリーンのスーツにはまったく不ぞろいな茶色いサンダルで走ってくる。
 「もういい。もういいの。」
 女の子は女性から逃げるように、正門を抜けようと駆けだした。
 「もういいの。来ないで。」
 駆けるといっても、女の子の歩幅は小さく、すぐに女性に追いつかれた。後ろから手をつかまれ、そのまま女性の方に振り向く形となった。
 「お願いだから…、お願いだから、話を聞いて。」
 女性は視線を女の子と同じ高さにした。まだ肩で息をしている。
 「ルカちゃん、やっぱり足、速いねー。先生、追いつけないかも、と思っちゃったよ。」
 女性、先生は息を整えながら、笑いかけた。
 ルカちゃんと呼ばれた女の子は先生を見つめた。先ほどの表情とは違って笑顔になっていた。それでも、大きな瞳に涙が溜まっている。
 「大丈夫。先生がお弁当、作ってあげるから。遠足の日もいつもどおり学校に来ていいんだよ。大丈夫だから。」
 ルカは大きくかぶりを振った。先生は続ける。
 「大丈夫。お母さんには何も言わなくていいから。先生も何も言わない。安心して。1年2組のみーんなで一緒に遠足に行こう。」
 「もういいの。」
 ルカはさっきと同じ言葉を繰り返す。
 先生はルカをそっと抱きしめた。
 「ごめんね、ごめんね。」
 -何で先生が謝るの?悪いのは私だよ。


第一章 

 最近、しばしばルカの家に泊まりにくるようになった俊介は
 「いったいどんな食生活をしてきたん?」
 と口癖のようにつぶやく。もはや質問ではなく独り言レベルだ。それを横耳に挟みながらルカはいつも思う。
 -昔のことはあんまり覚えてないなぁ。

 職場、支局の違う関俊介(せきしゅんすけ)との距離が近くなったきっかけは動物園だった。
 それまでも都内支局の営業担当者会議とその後の飲み会で何度か一緒になったことはあったのだが、その日はたまたま解散後に電車も一緒になった。その際、何かのきっかけで「動物園に行ったことがない」という話になったのだ。
 「えぇっ!動物園に行ったことがないの?」
 「はい。記憶にはないです。」
 「普通、家族で行かない?家族が無理でも、学校の遠足で行きそうなもんだけど。」
 「あぁ、遠足自体、行ったことがないんです。」
 「へ?」
 「すみません。あんまり子どもの頃の記憶がないんですよ。」
 「ほぉ、今更になって人生初動物園ってのもオツだね!」
 という流れから、二人で動物園に行くことになった。
 「せっかくここまで温めたんだし、都内に住んでいるし、人生初動物園は上野動物園しかあり得ないでしょ!」
 という俊介の主張により、5月のGWの一日を利用して、上野動物園に行くことにした。俊介と仕事の用事以外で休日に会うのはこれが初めてだった。
 待ち合わせ、上野駅に時間通りにやってきた俊介はジーンズにグレーのパーカーで、リュックを背負っていた。どんな格好したらよいか迷ったルカは、グレーのパーカーに薄手のアウターを羽織っており、やはりリュックを背負っていた。
 「おそろいじゃん。」
 二人で笑った。それまでスーツ姿しか見たことなかったが、背が自分と同じくらいの俊介のラフな服装を見て、ルカは可愛さを覚えた。
 動物園がどんなところか想像もついてなかったルカは、実際のパンダやゾウ、ライオンを初めて目にして興奮したものだった。
 「想像上の生き物じゃなかったんですね。」
 「すごいな、その感想。今時子どもでも言わんわ。」
 昼時になった。
 「こういうところってお昼ってどうするんですかね?売店で何か買います?」
 「何言ってんの?動物園だよ。遠足だよ。」
 そう言いながら俊介はルカを休憩所に案内して、着いたテーブルの上にリュックの中のものを並べだした。
 「遠足って言ったらお弁当でしょう!」
 大きめのタッパー2つと水筒、キャンプ用のコップまで出てくる。ふたを開けたタッパーにはラップに包んだおにぎり、ナゲット、卵焼きが詰まっていた。
 「えっ、自分で作ったの?」
 「たいしたものは作れなかったんだけど…。」
 「やばい。」
 「いや、もしかしてあなたも何か作ってきたらどうしようとも思ったけど、自炊一切しないんだったよね。じゃあ、被ることはないだろうと…。何か作ってきた?」
 「ごめんなさい、そんなこと考えもしなかった。」
 「いや、謝るとこじゃない。被ってないならよかった。あとはお口に合うかしら。もしかして、人の握ったおにぎり、食べられない人?」
 「確かに潔癖ですけど、それはない。」
 「よかった。もしかのことも考えて、あまり作ってきてないけど、よかったら一緒に食べない?」
 「ありがとうございます。喜んでいただきます。」
 確かに、飲み会の席で自分が料理できないことや潔癖であることを話した記憶はある。手作り弁当だけでなく、それを俊介が覚えてくれていたこと、その気遣いに驚いた。彼のノルマ達成率の高い理由がわかるような気がした。

 「あぁ、美味しかった。ごちそうさま。」
 「お粗末様でした。」
 特におにぎりが美味しくて、ほとんどをルカが平らげてしまった。
 「そう言えば、手作りのおにぎり、というより手作りのお弁当、食べたのは初めてかも。」
 「はぁ?いったいどんな食生活をしてきたん?」
 急に記憶が蘇った気がした。
 -あぁ、小学校の遠足で先生がお弁当、作ってくれたっけ…。


2
 ルカは昔からよく外国人に間違えられる。店先や店内で黙って商品を見ていると
 「だいじょうぶ、ですか?」
 と店員さんにゆっくりした口調で話しかけられることがある。英語で話しかけられることも多い。笑顔でそのまま逃げるように立ち去りながら
 -ごめんなさい。まぎらわしい外見で。
 といつも思う。
 祖父に似たのか、色白で目が大きく、瞳も茶色だ。栗毛色の髪はいつカットモデルのバイトが入ってもいいように伸ばしていることが多い。
 ルカの本名は福永瑠伽、普通に日本人だ。但し、中学の時から正式な書類以外はすべて、「ルカ」と書くようにしている。小学校の書道の時間、筆では文字がつぶれてうまく書けなかったこともあって、ルカ本人は自分の名前の「瑠伽」という漢字が昔から嫌いだった。このカナの名前を見て
 「日本の方ですよね?」
 と確かめられることも多い。

 横浜市の公立中学、私立の女子高を経て、都内の大学卒業後にルカは今の会社に就職する。勿論、「福永瑠伽」で書類を出したが、普段は「ルカ」で通している。
 大学の専攻は芸術だったが、そういう関係の仕事に就く計画はもともとしてない。好きな絵や彫刻に時間を費やすのは大学で最後にしよう、自分にそこまでの才能はない、就職は一般企業がいい、と考えて芸術大ではなく一般の私立大を選んだ。
 実際に就職活動を始める頃からルカが最も重要視したのは「内定を出してくれそうなところ」で、自分が就きたいかどうかは二の次となった。専攻した芸術のことより、高校、大学時代のアルバイト、コンパニオンやモデル、ビル警備員や道路工事作業員、ファーストフード販売員など、
 「どんな仕事であっても、最後まできっちりやり遂げます。結果も出します。」
 と多種多様な経験を売りにした。
 片っ端から面接を受けまくった結果、業界内では大手と呼ばれている教科書の出版会社から内定をもらうことができた。支局は全国にあり、しばしば転居を伴う異動もある。
 入社前、ルカは関東から遠くの支局への配属を望んだ。望んだだけで会社に希望を出したわけではない。
 -私ごときが会社に要望を出すなどおこがましい。
 と思っていた。
 4月の研修期間終了後、発表された配属先は地元の神奈川だった。
 神奈川第二支局、出版に関わる業務をこなすのは本社のほんの一部の部署のみとなり、本社以外の支局での業務はほぼ営業だけだった。ルカは小学校を始めとする教育施設へ卸す教科書や教材販売の営業担当となった。

 ルカは、学校の教師が聖職者だと教えられて育った世代ではない。小中高と自分の担任だった先生たちには何の思い入れもない。それでも、実際に目にする学校現場の現状、教師たちの人柄というのは、入社前のルカの想像を軽く超えていくものだった。無論、全ての学校現場、教師がそうであるわけではないし、出会えてよかったと思える教師もいた。さらに、保護者の対応や部活の顧問など激務に追われ憔悴しきっている教師を何人も見た。とはいえ、業者側であるルカに対して、抱えるストレスをそのままぶつけてきたり、世間一般からはかなりずれた倫理感を当然の権利として無理強いしてきたりする教師が少なからず存在することには閉口していた。
 ルカ自身は、この神奈川第二支局に勤務した4年で、現場の教師たちからの要求に応えたり往なしたりする術を身につけている。4年経つ頃には、教師たちを相手に、いちいち本気で怒ることも落ち込むことも少なくなったし、自分が女性であることによる面倒さにも耐えられるようになった。「お時間いただけますか?」とお願いして、休日、職場以外で会うことを指定してくる教師は要注意だということは身に染みてよくわかった。打ち合わせ時の食事の支払いは当然の如く、男性教師の中にはそれ以上のことを求めてくる者もいた。
 とはいえ、実際に面倒なのは、男性教師よりも女性教師で
 「子供も産んだことも、育てたこともない癖に!」
 と言い捨てるのは常に女性教師だった。

 入社から4年後、隣の神奈川第一支局、通称、横浜支局に異動となった。ここでも約4年勤務することになる。
 この横浜支局時代になると、最初の4年で感じていた「心のどこかが削られているような感覚」は、もはや普通の感覚となり、特に愚痴を言うこともなくなった。
 同期入社の、既に退職した友人からはしばしば
 「まだ仕事、辞めないの?大丈夫?」
 と聞かれると、ルカは
 「心から尊敬できる先生もいるのよ。」
 と答えるようにしていた。勿論、嘘ではない。確かに、素晴らしい先生や素晴らしい学校もあった。でも、それは方便だ。
 ルカが会社を辞めようと思わない最大の理由は、
 -自分のような人間はこの仕事を逃したらもう二度と定職には就けない。
 と思っているからだった。さらに、会社に対する忠誠心は誰にも負けないことも自負している。
 -こんな私を拾ってくれた会社には感謝しかない。この恩に一生かけて報いていく。
 と常に心から思っている。
 それもあって、会社から課せられるノルマはすべて達成してきた。残業も休日出勤も当たり前のようにこなした。後年、会社が全社的に「就業規則を守るように」と言うようになってからは、残業も休日出勤も一切つけないようにした。つけなくなっただけで、残業や休日出勤を止めたわけではない。ノルマを達成するために、朝から深夜まで土日休日を問わず働き詰めでも、ルカの出勤表は常に「週5、一日7.5時間勤務」をキープするようになったというだけである。いつしか、営業成績は神奈川の2つの支局でもトップになっていた。


3
 約4年ずつの神奈川第二支局、横浜支局勤務の後、入社9年目をむかえる頃にルカは都内の支局へ営業チームのリーダーとして異動となった。ここ数年続いていた全国的な営業不振を挽回するため、特に都内の5支局の数値を向上させるという会社の思惑で、全国から各支社の営業成績上位者が集められた。同じころに福岡支局から、ルカとは別の支局へ関俊介が異動してきたのも同じ理由である。

 この都内の支局への異動時、通勤距離の関係で、ルカは会社から転居を許されている。それはつまり、家賃援助を受けられる、ということであった。
 それまでの神奈川支局時代、会社への登録上では、ルカは横浜市の実家に住んでいることになっていた。この登録上の実家は祖父の家、ルカが中学から高校まで住んだ家だ。大学在学中はたまに必要な荷物、衣服を取りに戻る以外、ほとんどこの家に帰ることはなかった。4年の間、ルカは友達の家やネットカフェを転々としている。これが「就職できるならどこでもいい」に拍車をかける理由の一つとなっていた。就職して安定した収入を得られるようになって、一人で暮らせる家を確保したかったのだ。
 入社時にルカが地方への配属を望んでいたのは、横浜の実家住所から通えない支局への配属の場合、会社からの家賃援助が受けられるからだった。神奈川支局に配属になり、見事にその思惑は外れた。実家住所から通勤可能と会社が判断したためだ。
 それでも、入社後にルカがやろうとしたのは「賃貸契約」だった。自腹を切ってでも、一人暮らしを始めるつもりだった。初めての物件探し、初めての仲介業者への相談、ルカが希望したどの物件も…契約することはできなかった。
 保証人がいなかったのだ。
 学生や新社会人が初めての一人暮らしを始める際に、賃貸契約書の保証人欄の記入は保護者や親戚に依頼することが普通である。ルカにはその該当者がいなかった。仲介業者からは、祖父は年齢的に保証人にはなれないと言われた。両親の名前をルカが偽造して書くことはできたかもしれないが、連絡先までは知らなかったし、知っていたとしても書きたくなかった。
 業者の担当者にお願いして、やっとのことで保証人なしでも貸してくれる大家さんを探してもらい、なんとか契約できた部屋は、神奈川県郊外、女性が一人で住むには治安が不安な地域の、アパートと呼ぶのも憚られる物件で、駅からは遠く、壁は薄く、ユニットバスは常に異臭のするものであった。ルカは
 -保証人がいない自分が悪い。お貸しいただいたことに感謝しよう。
 と思うことにした。
 とはいえ、初めての自分だけの空間は嬉しかった。質素倹約はそれまでと変わらなかったが、駅近くの花屋で一本だけ花を買ってきて部屋に飾るというのがルカのささやかな贅沢になった。この部屋には約8年住むことになる。

 都内への異動を聞いたときに
 -今度は、会社が部屋を借りてくれるかも!
 と期待した。
 しかし、会社は上限付きで家賃の40%を援助してくれるとはいえ、借り上げてくれるわけでも、保証人になってくれるわけでもなく、はたして都内にはルカが借りられる物件はなかった。このことを会社の人事部に相談しても「規定にない」の一点張りで、最後には
 「もうご実家から通うしかないのではないですか?」
 とさじを投げられた。ルカの会社への登録住所は横浜の祖父の家のままだ。
 「私のせいでご迷惑をおかけしました。申し訳ございません。」
 ルカは人事宛に謝罪のメールを送っている。
 仕方なしに都内への異動後も、しばらくは神奈川から通ってみる。最初の一ヶ月で、通勤に片道2時間近くも費やすことが、精神的にも肉体的にもかなりの負担になることがわかった。実際に何度か電車内で気を失って倒れてもいる。
 そのため、空き時間を利用したり、ネットで調べたりしながら、細々と都内での物件探しを続けた。
 「私なりにきちんと働いてきた実績もありますし、貯金も少しはできました。けど、それではダメなんですか?」
 「特に独身女性の方の場合、保証人がいなければまず無理です。大家さんの問題なんですけどね、年配の方が多いですし…。有料の保証人代理サービスもありますけど、これは大抵の大家さんが敬遠するので、ほとんど機能してないのが現状です。」
 どこの仲介業者に聞いても、何度足を運んでも、8年前にも聞いた言葉を繰り返されるだけだった。
 いっそのこと、賃貸ではなくマンション購入を検討してみたところ、さらに厳しい言葉を投げつけられた。
 「保証人がいないのに、ローン組むなんて絶対無理っすよ。」
 「頭金を多めに入れるとかで、何とかならないですか?」
 「テレビでよく観る芸能人の人たちってすっごい稼いでいるように思いません?」
 「はぁ?」
 「実はあの人たち、家は買えないんですよ。下手したら、車も無理じゃないっすかね。」
 「いや、でも、よく何億円の豪邸購入とかネットニュースになってませんか?」
 「あれは、全部、一括で購入してるんっす。芸能なんてしょせん水商売ですから、どんなに稼いでいたって、それが何年も続く保証がないじゃないっすか。ローンが組めないんです。だから、一括で買うか、ずっと賃貸しかないらしいっすよ。」
 漸く、爪の先ほどの貯金ができたくらいのルカに、一括でマンション購入など、絶対に考えられることではなかった。
 -私は普通に生きたいだけなのに、何でこんなにいろいろ邪魔が入るのだろう…。
 「すみません。私がこんなのだから、いけないんですね。」
 いつも通り、自分が悪いということで納得しようとした。
 半ばあきらめかけていた頃に、たまたま結婚退職した同期から連絡があり、この件について話したところ
 「私、ルカのお姉さんってことにしてくれてもいいよ。」
 と言ってくれた。
 本当に偶然で、お願いするつもりもなかったのだが、この元同期は名前が瑠美ちゃん、瑠伽の本名の漢字「瑠」が同じで、しかも既婚者でルカと名字が違うことに違和感もなく、その好意に甘えさせてもらうことにした。
 それがよかったかどうかはわからないが、仮初めの保証人を立てて借りられた物件は、それまでの部屋から考えると、駅近で、立派にマンションと呼べるもので、狭いなりにも防音がしっかりした1K、オートロック、そして何よりもバス・トイレ別が嬉しかった。


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 都内に5つある支局から毎月、各支局の業務リーダーや代表者が丸の内の本社に集められ、代表者PJ会議が開かれる。営業チームのリーダーとなったルカは、この営業PJでもリーダーを任された。ほぼ毎回、会議後には飲み会があり、有志参加とはいえ、お酒の飲めないルカもリーダーとして参加しないわけにはいかなかった。3歳年上の関俊介と会ったのはこの会議、話をするようになったのは飲み会からだ。俊介は別支局の営業チームのエース候補ではあったが、リーダーではなかった。
 二人で動物園に行ったのはさらにその1年後、ルカ31才、俊介34才のときとなる。

 ほぼ毎食を自炊していると言う俊介から「うちに食べにくる?」と誘われたのは、動物園での初デート後、たまの休日に一緒に出掛けるようになっていた初秋のことだ。
 俊介の部屋は、ルカの想像以上にきちんと整頓されていた。会社から40%の家賃援助が出るとはいえ、かなりの額を毎月手出しすることを避けるため、お互い30才過ぎの一人暮らしとは思えない、安い、ワンルームに近い1Kを借りている。とはいえ、俊介の部屋はルカの部屋よりも広かった。ベッドがないせいでそう思えるだけかもしれないが。
 借りるときに最優先条件にしたと言うだけあって、1Kにしてはかなり機能が充実したキッチンには、ルカが見たこともないような調味料がたくさん並んでいた。
 その日の夕飯の献立は、キノコの炊き込みご飯、アルミホイルで包んでバター焼にした鮭、サツマイモとなめこの味噌汁。
 「これ、どうやって作るの?」
 「炊き込みご飯は醤油と酒、みりんがあれば簡単だよ。」
 「魚も料理できるの!?」
 「魚は切り身を買ってきて、アルミホイルで包んで、トースターで焼いただけ。」
 「ぜんぶ美味しいんだけど。」
 「ありがとう。旬のものを旬な時期に食べると何でも美味いんだよ。」
 そんな考え方をこれまでしたことがなく、正直、ルカは感動を覚えた。この頃になると、二人だけの時にルカはもう敬語では話していない。
 「そうなるだろうな」と思っていたのも確かだが、食事の感動が「いいか」と後押ししたのも確かで、ルカは自分でも驚くほど自然に言った。
 「今日、泊ってもいい?」
 「いいよ。」
 「でも、そのー」
 「何?」
 「私、ああいう、その、男女が泊ってすることができないんだけど。」
 「いいよ。」
 「でも、一緒に寝ていい?」
 「いいよ。」
 「理由とか聞かないの?」
 「うーん、言いたい時に言えばいいんじゃない?」
 「ありがと。」
 一緒に布団に入っても、本当に俊介はルカに何もしてこなかった。あまりにも何もしてこないので、口づけだけはルカから求めた。
 「え?大丈夫?」
 「うん。キスは大丈夫。」
 「いいの?」
 「しつこい。」
 その日は俊介にくっついて朝まで寝た。

 それからの週末は俊介の部屋で、最近は週末に関係なく仕事終わりの遅いルカの部屋で、俊介が手料理をふるまうようになっていった。


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 ルカの家は、玄関を開けたらすぐ台所だ。
 「ただいま。」
 「おかえり。」
 大抵は先に仕事を終わらせた俊介が、台所で夕飯を作りながら迎えてくれる。
 「外までいい匂いがしてるよ。今日は何?」
 「鶏肉と大根のポン酢煮と味噌汁。」
 「それ、好きなやつ。」
 ポン酢と水を1:1にして煮込むだけだから、簡単に作れるよ、と何度言われても作ったことがないやつでもある。
 「お味噌汁の具は?」
 「じゃがいもと玉ねぎ。」
 「最強じゃん。」
 「いや、豆腐とワカメも捨てがたいけど、今日はこっちだね。」
 「私はお土産、買ってきたよう。」
 食後にルカは、駅の売店で目に入って思わず買った箱入りの「おみくじせんべい」を俊介に渡した。
 「おみくじせんべい?フォーチューン・クッキーでしょ?」
 「何それ?」
 「中華料理屋のランチについてくるやつ。」
 「ぜんぜんわかんない。」
 箱を開けてみた。
 「やっぱりフォーチューン・クッキーだ。この中におみくじが入ってんのよ。周りはただの草加せんべい。」
 「おもしろそうじゃん。やってみようよ。」
 ルカは「大吉」、俊介は「中吉」が出た。
 「なんですと!もう一個食べよう。同じのがもう一回出たら、認めるわ。」
 「ほら、楽しくなってる。」
 今度もルカは「大吉」、俊介は「末吉」だった。
 同じ大吉でも書いている内容は違う。
 「さっきは『臨時収入あり』だったけど、今度は『一攫千金』だって。宝くじでも買おうかなぁ。」
 「ぬぉ!俺は『待ち人こず』だし、『落とし物注意』って…」
 「まぁ、こういうのって当りにも外れにもどっちにも取れる書き方してるしね、気にしない、気にしない。」
 「大吉だからそう言うんでしょ。俺はこういうの、気になるの。」
 「へへへ」
 「入社の時にさ、何か性格テストみたいなの、なかった?俺、あのテストの結果、いまだに気にしてるし。」
 「あぁ、性格診断テスト?私の時もあった。」
 「自分の考えで行動できる反面、上司の言うことを聞かない傾向がある、だって。俺、むっちゃ素直でしょ。」
 「いや、当たってると思うよ。今だって俊くん、後輩の育成、ぜんぜんやってないじゃん。」
 「おかしな奴を採用したのは会社なんだし、何で会社がその育成を俺に押し付けてくるのか、全く納得ができん。言っとくけど、自分のノルマは達成してるからね。」
 「はいはい。そもそも性格診断テストはおみくじとは違うよ。」
 「で、あなたはどうだったの?」
 「うーん、あんまり覚えてない。」
 実は覚えていた。診断結果のシートを見て、人事の研修担当者からは笑いながら
 「ストレス対応能力と忍耐力の結果が、異常値かと疑われるほどの数値を出しています。福永さんの場合は、あんまり頑張り過ぎないくらいがちょうどいいのかもしれませんね。気をつけて。」
 と言われている。
 -このまま、明日が来ても目が覚めませんように。
 と思いながら毎晩、眠りについていた頃のことを考えると、何でも耐えられる自信は確かにあった。
 無理難題を押し付けてくる顧客も、全く言うことを聞いてくれない新人の育成も、達成する度に高く再設定されるノルマも、ルカには何ともなかった。会社の同僚が愚痴を言っていても、俊介がいくら会社に怒っていても、ルカはいつも笑いながら聞くだけだ。
 心から思っていた。
 -今は明日が怖くない。


6
 ルカが都内に異動してから3度目、俊介と過ごすようになって2度目の冬を迎えようとしていたある日、俊介が
 「年末年始はどうすんの?」
 と聞いてきた。
 「どうもしないよ。ひたすら寝る。」
 「いや、そういうことじゃなくて、実家に帰らないの、って聞いている。」
 「いや、だから、ここでひたすら寝るの。」
 「去年の年末も実家に帰ってなかったじゃん。大丈夫なん?」
 「あー、大丈夫。ぜんぜん余裕。ってか、私、パパもママもいないんだよね。」
 「えっ?」
 「うん、言ってなかったね。」
 「それはごめん。」
 「謝んなくていいから。死んでるわけでもないし。」
 「あぁーん、わかった。詳しくは聞かない。」
 「ごめんね。話したくないわけじゃないんだけど。」
 言いながらルカは思った。
 -年末年始は普通の人は親や家族と過ごすんだぁ。私、いつもどうしてたんだっけ?

 中学、高校を過ごした横浜の祖父の家では正月を家で祝うという習慣がなかった。
 一代で会社を興した祖父は、大晦日から元旦にかけて得意先へのあいさつ回りで忙しく、いつにも増して家にいることがなかった。日本人離れした背丈と風貌の祖父には、綺麗という言葉がよく似合った。常に華やか、そこにいるだけで周囲を明るくするような雰囲気を持ち、誰からも求められているような人だった。
 祖父の会社の役員だった祖母は、祖父以上に仕事にのめりこむ人で、正月どころか1年のほとんどを会社で過ごしていた。仕事に打ち込むという共通点はあるものの、祖母は祖父とは真逆にいるようなタイプにしか見えない。当時既に少なくなっていた、常に着物という古風な外見で、事務方に徹していたのか、会社の誰をも寄せ付けようとしなかった。いつも遠くを見ているような面持ちで、ほとんど言葉を発しない。荘厳さ、畏怖心、カリスマ性とは違う、それでも、周りの人間が話しかけたり、近づいたりすることを躊躇するような、独特な雰囲気が漂う人だった。そしてそれはルカの母親にも継がれていた。
 ルカは祖母とは、誇張ではなく数えられる程度にしか会話をしたことがない。ルカが祖父の家に引き取られたのは中学に入学する前だが、その当時から、祖母を家の中で見ることはほとんどなかった。たまに帰っているときにも、書斎に籠りきりで、ルカとはまず顔を合わさない。ルカを無視しているというわけではなく、ルカの存在自体を気にしていない、それ以前に気がついていない感じがした。
 そんな祖母が家事をやることはなく、台所に立つなどは決してなかった。掃除と洗濯はヘルパーさんを雇っていた。食事は、祖父が毎晩のように買って帰る出来合いのお惣菜か、会社から持って帰るお土産が常だった。そのことについて祖父が祖母に何か言っているのを聞いたこともない。

 その祖母はルカが高1の時に亡くなった。といっても、ルカの生活が変わるわけでもなく、少なくとも家で見る祖父の様子もそれまでと同じものだった。
 この頃から、ルカはアルバイトに励むようになる。祖父からは特にお小遣いをもらっていなかったが、恐らく、頼めばもらえたのだろう。しかし、ルカにはそれを言い出すことはできなかった。家に住まわせてもらっているだけで申し訳なく思っていた。何より、遊ぶためのお小遣いではなく、将来のための貯金を考えるようになっていた。
 祖父の血なのか、色白で目が大きく、栗色の髪のルカは、高校に入ってから、イベントのコンパニオンや美容院のカットモデル、瞳やまつ毛といったメイクのパーツモデルを頼まれるようになっていた。人前に出たり、人が見るサイトに自分の画像が出たりするのには抵抗があったが、就職のための大学進学に必要な資金作りに、こうしたアルバイトを受けるようにしていった。それまで髪の毛は自分で切ったり、友達に切ってもらったりだったので、特に美容院のカットモデルは、ルカにとっては一石二鳥となった。
 高校から大学卒業まで、ルカの年末年始は毎年、友達の実家の神社での巫女アルバイトで忙殺されている。

 「去年の年末に帰省してみて、もう二度とこの時期には移動しないって決めたんだけど。飛行機代が絶対無理!新幹線もきつい!!」
 四国出身の俊介は、この年末年始は帰省しないと言う。特に予定がない俊介を拒む理由なんぞルカにはなかった。
 「いいじゃん。私も何の予定もないし。一緒に過ごそう。」
 「えぇっ!いいの?俺はうれしいけど。」
 「もちろん。私も俊くんと一緒がうれしい。」
 就職してからはひたすら寝て過ごす正月だった。人と家でゆっくり過ごす正月は就職以来どころか、生まれてこの方初めてかもしれなかった。

 12月30日、会社が休みに入るとすぐにルカは俊介の部屋を訪ねた。俊介が
 「初めてのお節料理に挑戦する!」
 と宣言したのだった。料理をするには台所、調味料の充実度から絶対に俊介宅が向いている。二人で必要な材料を買い出しに行き、その日の夜から仕込みに入り、31日は朝からお節料理を作った。とはいえ、もっぱらルカは料理する俊介の話し相手を務めただけだ。俊介に料理してもらうようになって、一緒に家にいるときには必ずと言っていいほど横にくっついてその様子を見るのだが、ルカが手伝うのは食器の準備や、洗い物だけだった。包丁と火がどうしても自分では扱えず、料理をする気にはなれなかった。
 「おかんが作る“かます”は酸っぱくて苦手やったけど、自分で作ったら美味いなぁ。」
 「“たづくり”ってどんだけ砂糖、使う!?」
 「“ぶりの照り焼き”、作り立ては最高やん!」
 「見て、この“叉焼”。ほろほろ。」
 夜には年越しそばを食べ、のんびりとテレビを観ながら過ごした。
 元旦の昼頃に起きだして、お節料理を広げた。雑煮は茹でた餅の入った白味噌と焼いた餅の入ったお吸ましの両方を俊介が作ってくれた。俊介の実家は白味噌だそうだが、ルカは「両方食べたい」とねだったのだ。
 お腹をさすりながら、二人で近所の神社に初詣に出向く。夕方になっていたとはいえ、元旦の神社はまだまだ賑わっていた。
 二人でお賽銭を投げ込み、願掛けをする。ルカが顔上げると、横の俊介はまだ目をつぶったまま真剣に祈っていた。その横顔を見ながら、
 -帰省しないと言い出したのは、私が昨年の年末年始を一人で過ごしたことを気にしてくれたのかなあ。
 そう思うとルカは泣きそうになった。
 「ね、ね、何をお願いしたの?」
 「言うわけないじゃん。」
 「けち!」
 「えっ、そういう問題じゃなくて、言うとご利益がなくなるの。」
 おみくじではルカが「大吉」、俊介は「凶」だった。落ち込む俊介をルカは必死に慰めた。


7
 ルカは誰といても大抵、
 -こんな私でごめんね。
 と思っている。仕事柄自分が折れた方が丸く収まるので無理やりそう思うようになったのではなく、物心ついたときにはそうなっていた気がする。
 俊介は、ルカのこういうところを
 「地球が丸いのも、雨が降るのも、電車が止まるのも、全部自分が悪いって思ってない?」
 とからかってくる。
 ルカは笑って何も返さないが、あながち外れていないと思っている。

 ルカが就職して2年目の夏、祖父が亡くなった。就職して、一人暮らしを始めてからは一度も会うことはなかった。
 祖父の告別式には猛暑の中、驚くほどの数の弔問客が訪れ、手伝いに駆り出されたルカには祖父との別れを悲しむ暇もなかった。
 そんな中、祖母の告別式には来なかった母親を見た。
 「まだ生きてたんだ?」
 十数年ぶりに会ったルカに対し、母親が発したのはこの一言だけだった。祖父にとって一人娘となる母親は一切何もせずにいつのまにか会場からいなくなっていた。

 式から数日経った平日の正午過ぎ、ルカの携帯電話に見知らぬ番号から着信があった。祖父が亡くなる前後から、病院やら親戚やら登録してない番号からかかってくることが増えていたので、何の気なしに電話を取る。
 「今すぐ、横浜の家に来な。」
 母親だった。
 思わず伸びた背筋に汗が流れたのは暑さのせいではない。

 午後の外回りの予定を何とかメンバーに代わってもらって取るものもとりあえず、祖父の家に着くと、そこにいるのが当然のように母親がいた。汗だくになっていたルカとは対照的に、全身真っ黒な服に身を包んだ母親は暑さを感じていないかのようだ。昔と変わっていないとしたら、黒い服を着ているのはいつものことで、喪に伏しているわけではないはずだ。
 促されて入った応接間には、黒いスーツ姿の女性がソファにかけていた。こちらは喪に伏してくれているのだろう。女性はルカを見ると
 「弁護士の大塚真麻(おおつかまあさ)です。」
 と名刺を差し出してきた。きれいに揃えた前髪と後ろできっちり束ねた髪が見て取れた。控え目なメイクや整えた眉が聡明そうな顔によく似合っている。
 どう名乗るべきか迷ったルカは
 「福永ルカです。」
 と言うだけに留めた。名刺を渡すのは怖かったのでやめている。
 座るなり、母親が切り出した。
 「あのさ、私の分のパパの財産でマンション買うことにするから。」
 「えっと、あの…」
 相変わらず、母親の言葉数は少ない。顔をルカの方に向けてはいても、視線が合っているのかどうかがわからないのも昔と変わっていない。その大きな目も真っ白な肌も母娘はそっくりだった。
 「私の方から説明いたします。」
 大塚弁護士が話しかけた時には、母親はもう立ち上がっていた。
 「娘なんだし、あんたがやっといて。」
 言い捨てると、さっさと部屋を出ていく。
 煙草を吸いに行ったのだとルカは確信した。母親がいなくなったことで、ルカは少し落ち着くことができた。
 「お母様…、春香(はるか)様からはまだ何もお聞きになってはいませんか?」
 「聞くも何も、来いと言われただけですので。」
 「そうですか…。」
 大塚弁護士は一瞬だけ困ったような表情を見せたが、すぐにそれをかき消した。
 「では、改めまして、私の方から説明させていただきます。」

 非常に簡潔に、かつ肝心なところはしっかりと大塚弁護士が話してくれたおかげで、ルカにも大体のことは理解できた。
 「要は、母の代わりに相続やらの手続きを私が全部やればいいんですよね。母の取り分でマンションを購入する…、その手続きも私がやるということですね。」
 「正確には、お爺様の会社が春香様名義のマンションを購入しますので、それ以外の遺産相続に関しては口を挟まないでほしい、という会社経営陣からの申し出です。本当は役員の方も本日同席する予定でしたが、お母様が断固拒否されたものですから。」
 「すみません。会社の方も母が今更出てきても困るでしょうしね。」
 ルカには思うところがあった。
 「私はお母様に依頼されてここに来ているわけではないとはいえ、本当は弁護士として、こういうことを言ってはいけないのですが…」
 大塚弁護士はここでルカを真っすぐに見つめ直した。
 「私も一人娘の母親ですので言ってしまいます。いくら孫であるルカさんに法的な相続権がないとはいえ、お母様は自分の相続のことしか気にされていませんでした。そんなお母様のために、ルカさんがいろいろやってあげる必要はないのではないでしょうか。」
 「いや、いろいろすみません。」
 「ルカさんが謝る必要なんてありません。」
 大塚弁護士は怒っているようだった。
 「とはいえ、ルカさんがやってくれないと、困るのは私たちなんですけどね。」
 娘に夕飯を作らなきゃと大塚弁護士はいそいそと帰って行った。その背中にルカは頭を下げた。
 -すみません。私が生まれていなければ、ママはあんなになってないかもしれません。


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