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それでもあなたは自分が私の父親だと言う 第四章②

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 民法877条第1項で定められている扶養義務者は、直系血族及び兄弟姉妹となる。直系血族とは本人の祖父母、父母、子ども、孫のことである。ここに結婚などによる戸籍の変更は関係ない。同じく、民法752条では、夫婦間にも扶養義務があるとされている。例えば、自分の父親に介護の必要が生じた場合に、その介護義務が発生するのは、父親の兄弟姉妹、母親(父親から見た妻、配偶者)、自分と兄弟姉妹、自分の子どもたち、となる。よく誤解されているが、自分の配偶者には発生しない。
 自分が父親と不仲だからという理由だけでは、法律上、扶養義務は放棄できない。放棄すると場合によっては保護責任者遺棄罪に該当し、3ヶ月以上5年以下の懲役に科せられるとなっている。
 但し、扶養義務は「経済的に余裕がある場合にのみ発生する」ともされている。そのため、経済的余裕がなく親の面倒をみる余裕がないと裁判所が判断した場合には、扶養義務を果たせていなくても問題にはならない。とは言え実際には、本人が普通に仕事をして安定した収入を得ていれば、裁判所は経済的余裕ありと判断することが通常で、本人が生活保護を受けるくらい困窮しているなど、よほどのことがなければ扶養義務からは逃げられないとする方が一般的である。
 さらに、扶養義務には、同居の有無は関係ないため、同居している長男だけが抱え込む必要はなく、自分の兄弟姉妹や親族、つまりは親の兄弟姉妹にも頼ってよいとされている。親族間で介護の分担について話がまとまらない場合には、家庭裁判所にて介護費用の分担を決定してもらうことも可能だ。
 自分に兄弟姉妹や頼れる親族がいない場合には、各市町村にある地域包括支援センターに相談することもできる。地域包括支援センターとは、高齢者とその家族が支援や介護に関して相談できる窓口であり、様々なノウハウを持っているとされている。地域包括センターに相談することで、介護施設を紹介してもらえる可能性も高い。介護施設の入居は経済的負担が大きいと考えられがちだが、入居費用などは親の預貯金や健康保険制度、介護保険を活用すれば、その負担を減らせることが多く、例え、親の預貯金がない、各種制度を利用しても入居費用を用意できない場合でも、親に生活保護を受けさせることで、その範囲内で入れる施設を探すこともできる。

 「生活保護を受けながら入居できる施設がある、ということですか?」
 「はい。私はそっちの専門家ではないので安易なことは言えませんが、親を介護する側の人間、つまり、子どもの生活を守るための法律もあるということです。」
 「それは私が親を介護することを受け入れるという前提ですよね。」
 「はい。そうなります。」
 ルカは座ったまま、両手で顔を覆った。別に泣いたわけではない。泣く気もない。
 「うーん…」
 「民法に扶養義務を免除する規定がないので、どんな理由を並べたところで、正直に言って申し訳ないですが、法律からは逃げられません。」
 「私は頭が悪いので、はっきり言ってもらった方がありがたいです。」
 ルカは顔を上げた。
 大塚さんは残りのコーヒーを飲み干して、ルカの目をまっすぐに見た。
 「次に考えられるのは、ルカさんの父親相手に裁判を起こすことです。近年、児童虐待への関心度は上がってきているので、話題になる可能性はあります。」
 「うん?別に裁判をするなんて、思ってもいないですけど。」
 「はい。ただ、極論に聞こえるかもしれませんが、親の介護義務という法律を拒否したいんだったら、法律で対抗するしかないとも思っています。刑事裁判に持ち込んで父親が加害者、ルカさんが被害者という構図を作ることができれば、光が見えてくる可能性はあります。」
 「私はそんなことは望んでませんし、だいたい裁判費用がありません。」
 「そうですね。でも、もう少しだけ聞いてくださいね。」
 大塚さんは少しだけ笑顔を作ってくれた。
 「判決次第とはいえ、加害者が被害者に将来一切接触しないことを盛り込むことができれば、介護の義務は回避できる可能性があります。ストーカー規制法なんかがそうですね。但し、裁判をするからには、ルカさんに、過去にあったことを全て話してもらうことになります。詳しいことはまだお聞きしてないので何とも言えませんが、2000年に制定された児童虐待防止法で定義された、身体的虐待、性的虐待、育児放棄、心理的虐待の4つのうち、私が聞いた限りでも、ルカさんが育児放棄、つまりネグレクトされていた可能性は非常に高いと思っています。身体的虐待はどうですか?また、ご両親が互いを罵りあう、一方が一方に暴力をふるうといったことがあったならば、心理的虐待にも該当します。」
 これは2004年の法改訂で付け加えられた。
 「あとは性的虐待ですが…。」
 大塚さんはルカから視線を外して、
 「これについては、親から虐待を受けた多くの子どもが性的虐待について語りたがらないのが現実です。大抵は『親から乱暴された』という言葉の中に、性的虐待を含んで語っていることが多い、とも聞いています。」
 こう早口で一気に話すと、立ち上がった。
 「何があったかを話すかどうかはルカさんにお任せします。私に話していただいても、裁判をするかどうかは別問題ですし、裁判をしたところで、何か証明できるものがなければ、勝つ見込みがほとんどないのも事実です。」
 ルカに泣く気はまったくないのに、大塚さんの目が潤んでいるような気がする。
 「残念ながら、ルカさんが介護義務を逃れる方法はほぼない、というのが現実です。ごめんなさい。」
 立ったまま頭を深く下げた。
 「いや、私が悪いんです。すみません。」
 「あなたは何にも悪くないんですよ。」
 頭を下げたまま、大塚さんの絞り出すような声が聞こえた。
 -ごめんなさい。
 ルカも頭を下げた。

 この後、数週間にわたって美恵子から毎日のように電話が入った。仕事で出られないと、何度も何度も着信を残す。仕方なく、かけ直すとそこから平気で1時間以上の話が続いた。
 「金を払う気はない。」
 「私はとっくに福田家の人間ではない。」
 「親の面倒は子供が見るのが当然だ。」
 「あんたは鬼だ。」
 こんな言葉がとりとめもなく繰り返された。
 ルカも福田家の戸籍から抜けていること、法律的には美恵子にもルカにも扶養義務は発生することを説明しようとしても、一切聞く耳を持たない。あの父親の姉だけのことはあると妙に納得したものだ。ただ、その血が自分にも流れていると思うと、怖気が走った。
 「俺はお前の父親だからな。お前は一生、俺の面倒を見ろよ。」
 美恵子の声を聞いていると、母親と一緒になってルカを見下ろしながら、笑っていた父親の顔がやたらと思い出された。
 「子供ができてよかったなぁ。俺ら、これでもう一生安泰だわ。」
 と言いながら母親にヘラヘラと笑いかけていた。母親、春香は完全に無視していたが。

 大塚さんからは随分と反対されたが、結局のところ、父親の医療費、入院金の一切合切をルカ一人で支払った。その後、大塚さんに相談しながら、父親に生活保護を受けさせることにした。
 生活保護を受けるためには、全ての財産を手放さなければならい。
 すっかり観光業が衰え、町はしぼむように縮小していたため、建物どころか土地にさえ買い手がつくとは思えなかった下田の家は、幸いにも、存命していた福田の祖父の名義のままだったので、処分する必要はなかった。
 ルカはこの祖父、そして祖母の名前をこの時、初めて知った。学校に登校する時にすれ違ったり、帰ってきた時に畑に出ているのを見たりした覚えはあるが、話した記憶は一度たりともない。こっちから挨拶しても無視されていた気がする。ルカにとって、すぐ隣に住んでいたくせに、全て見て見ぬふりをしていた人たちだった。初めて知った祖父と祖母の名前を、ルカはすぐに忘れた。
 吐き気を我慢しながら久しぶりに自分の育った土地を訪れたルカにとって、わずかながら幸いだったのは、ルカの暮らした、離れだった平屋が既に取り壊されていたことだ。ルカが初めて入った本宅、父親の部屋には財産と見なされそうなものは何もなかった。
 唯一、薄水色の車体の低い、ぼろぼろに錆びていたクラシックカーには値が付いた。一万円だった。
 大塚さんの紹介もあって、市の地域包括センターからは生活保護の範囲内で入れる施設を紹介してもらうことができた。施設への支払い月7万円のうち5万は国から援助されるところまではもっていけた。残りの2万円、さらに生活物資代もろもろで、毎月4~5万をルカが支払うことになった。
 経済的な負担をルカが全て負う代わりに、叔母、美恵子には時々の面会をお願いした。自分の生活はかなり苦しくなることはわかっていたが、父親と会うことだけは絶対に避けたかった。
 「お前は鬼だ。」
 それからも気まぐれにかけてくる電話で、美恵子は最後に必ずこう言った。


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 小6の夏、ネコが死んだ。
 ベリちゃんは数日前からエサを食べなくなり、専用ケージの中の自分の寝床からほとんど出てこなくなっていた。夏休み中だったルカは、昼頃に母親がタクシーでベリちゃんを連れて出かけたのを知っている。多分、動物病院に連れて行っていたのであろう。同じくタクシーで帰ってきたのは夕方だった。その夜からベリちゃんは、それまではふらつきながら移動していたトイレにも行かなくなり、寝床の中に横になって荒い呼吸を繰り返すだけとなった。この数日間、母親は昼夜不眠で見守り続けている。
 翌日の朝方、サイレンのような音で、ソファの上でうとうとしたルカは目を覚ました。サイレンのように聞こえたのは、母親が半狂乱になって泣き叫ぶ声だった。ベリちゃんは硬く、冷たくなっていた。ルカが、春香の取り乱した様子を見たのは後にも先にもこの時だけだ。
 その数日後、春香が家から消えた。

 最初は、いつものように週末に横浜の家に帰っているのだと思っていた。
 それが日曜の夜になっても帰ってこない。そして、月曜になっても帰ってこなかった。ルカから連絡しようにも家に電話はなく、携帯電話も持たされてない。仮に家電話や携帯があったとしても、母親や横浜の電話番号を知らないルカには待つしかなかった。ベリちゃんもいなくなって静かになった家で、一人ぼっちで待った。母親がいつ帰ってくるかがわからないので、テレビはつけない、給湯器のスイッチもオフにしたまま、ただ、待っていた。夏休み中で学校に行くことはない。エアコンが作動しているといっても汗はかくので、服は着替えて、洗濯だけは自分でこなしていた。時々手伝わされていたので、洗濯機と乾燥機の使い方は教えられている。服が乾くまでの間は裸で過ごした。
 火曜日になった。もう5日間、水道水しか口にしていない。手の指が5本とも攣るようになった。これまでも食事を抜かれることは度々あったが、ここまでになったのは初めてのことだ。
 -死ぬかも。
 もう立てなくなってきていた。
 シンク下の戸棚には、キャットフードがあることは知っている。勝手に開けることを禁じられていた冷蔵庫を開けてみると、炭酸系飲料のペットボトルが大量に入っていた。冷凍庫には箱型の大容量のアイスクリームが詰め込まれている。さらに、やはり勝手に入ることを禁じられていたリビングに行くと、クローゼットの中に、自分の下着や大量の服のほかに、未開封の段ボールに入ったスナック菓子とカップのインスタントラーメンを発見した。
 怒られることを覚悟して、それらに手をつけた。体罰で殺されるよりも、今生きることを優先した。
 しばらくして2学期が始まり、給食を食べられるようになったのは幸いだった。

 9月のある夜、激しい物音を立てて、玄関ドアが開かれたのがわかった。騒音はしばらく続く。
 「くそっ!」
 時々、騒音に混じるのは父親、雄二の荒い声だ。
 恐る恐る、ルカがダイニングから玄関をのぞくと、玄関にまだ片足を残すような体勢で、雄二がうつぶせに倒れているのが見えた。
 雄二が怖い、というよりも、その時のルカは開けっ放しの引き戸から入ってきた、明かりの下で飛び回っている蛾やカナブンなどの虫が恐ろしかった。ルカは虫が嫌いとか気持ち悪いといった次元ではなく、生理的に受け付けることができない。
 これは母親の春香も同じで、虫を見るたびに
 「こんな田舎に来るんじゃなかった。」
 とこぼしていた。そのため、ほぼ1年中、特に夏、平屋の窓が開かれることは絶対になかった。
 -玄関を閉めないと、どんどん虫が入ってくる。
 と考えると、悪寒のような恐怖が背中に走る。なのに、既に入ってきている虫のために玄関に行くこともできない。
 ルカがそのままダイニングに戻って引き籠っていると、雄二が起き上がっている気配がした。ほどなく、ダイニングのドアが開く。
 「瑠伽、お前、ママをどこにやった!?」
 母親が絶対に平屋に入れないようにしていた、酔った状態の雄二だった。
 「ママがどこにいるか、知ってんだろ!」
 雄二はダイニングを見回すと、ソファの陰に隠れるようにしていたルカの方に迫ってきた。眼が血走り、いつも以上に吊り上がっている。
 「お前のせいでママが出ていったろ。わかってんのか!」
 雄二は何かに蹴躓いて、ソファに倒れこんだ。
 「くそっ、お前さえいなけりゃ。」
 しばらく悪態をついていた雄二は、そのまま大きないびきをかき始めた。
 その夜、ルカはリビングで生まれて初めて過ごした。部屋の隅で膝を抱えたまま、いつ父親が入ってくるかと思うと、とても眠ることはできなかった。

 ルカが下田の家を飛び出したのは、この年の年末のことだ。
 この家にはもういられないと思った。計画を立てていたわけでなく、行く当てもなく、ただ家を飛び出した、そんな感じだ。気がつくと、通学路以外で知っていた唯一の道、母親に連れられて何度かタクシーで走った道の記憶を辿りながら、歩いて横浜に向かっていた。何時間、何日、歩き続けたのかは記憶にない。祖父の家に着いてチャイムを押したかどうかの記憶もない。門の前で座っていたところを、祖父に抱えられたのは少しだけ覚えている。
 記憶は飛び、その後すぐだったのか、数日後だったのかはわからないが、リビングの革張りのソファに座っていた祖父の姿を覚えている。
 「ごめんな。おじいちゃん、ルカに何があったのか聞かないといけないのに、何も聞けないんだ。」
 祖父は両手で顔を覆っていた。
 「ルカに何があったのかを知ってしまったら、おじいちゃんの心が壊れてしまいそうで怖いんだ。」
 「大丈夫。私、何も覚えてないから。」
 こう応えた記憶はある。
 嘘ではなかった。記憶があいまいなことは本当だった。
 この後、ルカは下田に戻ることなく小学校を卒業した。卒業式には出ていない。中学はそのまま横浜市の公立中に進む。この間にルカの知らないところで、春香と雄二の離婚が正式に成立していた。雄二は春香の実家から、「ルカには近づかない」という条件で相当な額の慰謝料をせしめている。それを使い果たしたからなのか、一応約束を守っていたのかどうかはわからないが、雄二がルカの前に再び姿を現すのはこの6年後となった。それからルカは横浜の家には帰れなくなるのである。


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