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親の心を支える育児の地図「定本 育児の百科」

0才児を育てるのが本当はこんなに大変なのだと、誰も口にしてこなかったのだ


0才児の育児がこんなに大変だったなんて。12年前、38歳で出産したときに強く思った。だってその当時は誰も口にしていなかった。親になった人たちはみな、こんな重責にひっそりと耐えていたのか。

その頃の私は長く勤めた出版社を辞め、フリーランスの編集者・ライターになってまだ数年。個人としてのキャリアを築いていこうと、やる気と体力だけを武器に歩み出したばかりだった。少しでも実績を作らなきゃと、頭の中は100%仕事しかなかった。会社は辞めていたから身近に子育てのことを相談できる先輩は皆無だったし、仕事仲間に子供を持つ人もほぼいない。学生時代の友人も、子供のいる人とは長いこと連絡をとっていなかった。出産した2009年当時はSNSも黎明期でまだ広まっておらず、雑誌やウェブなどのメディアでは、どちらかというとまだ子育てを無駄にお洒落に見せようとする空気が色濃い時代。だから、実用的な具体例がなかなか見つからなかった。

そんな中、なんだかよくわからないままぶっつけ本番でいきなり始まった新生児育児だった。来る日も来る日も、何だこれは、聞いてないよの嵐で、まるでTシャツ短パンサンダル履きで冬山登山(したことないけど)に強制参加させられた素人そのもの。赤ちゃんは予測不可能だから仕事と違って予定なんて立てようがないし、知識もないからどこがどう危険なのかも分からない。自分がいつどこで休憩できるのかも分からない。とにかく、母子ともに死なないように前に進むのみ。いまも、当時の自分が写っている写真は見たくない。だってほんとうにひどいから。服はよれよれですっぴんで、ああ、誰か彼女を助けてあげてと気の毒にすら思えるほどのくたびれ加減だ。

そんなとき、まるで百戦錬磨のシェルパのように私を精神的にも知識面でも支え続けてくれたのが、松田道雄の「定本 育児の百科」だった。本は6歳までの育児が対象だが、私は娘が中学生になったいまも、煮詰まると読み返すことがある。迷える親の心を支える温かい言葉が、ページのそこここにあるのだ。


あのね、0才児育児はほんと大変です

この本を紹介するのとともに、私がこれから育児をする人たちに伝えたいこと。それは、育児、とくに0才児時代のそれは大変だから覚悟して欲しいということ。もちろん、子育ては個々に違う。なかには0歳児でもそんなに大変じゃない人もいるらしい(ほんとかな、会ったことないけど)。けれど私は、出産直後から数ヶ月の育児が、意識がぶっとぶほど大変だった。それまでは部数の大きな月刊誌の編集部にいたこともあり、仕事では何度も徹夜など過酷な現場を経験してきてそれなりにタフなつもりだったが、そんなの育児に比べたら。だって仕事には納期があって求められることが明確だけど、育児の相手は24時間看護の必要な、意思疎通の不可能な0才児。こちらがミスすると、怒られるとか迷惑かけるとかじゃなくて、死んじゃうかもしれないというひとつの生命(つまりそもそも比較自体がナンセンスなんだけど)。だから、どうか親になるすべての人は、これから直面する現場がとんでもなく大変だということを覚悟して欲しい。これ、案外誰も口にしないから。

もちろん、生まれたてのおチビはそれはそれはかわいいし愛おしい。でも、かわいいからって0歳児育児の苦しさは減りはしない。対象は深く愛せるが、その環境や状況は別。私は気が遠くなるほど過酷だった。

赤ちゃんってなんで寝ないの

夜はほぼ一時間ごとに泣き叫び、すやすやなんて寝てはくれない。自分の意識が寝てるのか起きてるのか朦朧としている中、赤ちゃんが何を要求しているかなんて読めるはずもなく、ただただあやして、おっぱいを飲ませ、あやし続ける。どんなに難しいクライアントにつきあうよりうんざりする。自分は壊れるんじゃないかと思う瞬間が、私は何度もあった。

赤ちゃんがすやすや眠り、起きるとニコニコしていつも静かなんて、そんなの幻想に等しい。今でも映画やドラマでそんなシーンを見ると、そんな綺麗事は頼むからやめて欲しいと心から思う。赤ちゃんというものは、ギャンギャン泣いて、1日に十数回もおむつを替えて、せっかく飲んだおっぱいやミルクも実によく吐き、また泣き叫ぶ。怖いぐらい母親や父親を疲弊させるのが赤ちゃん。で、たまに人がくると途端におとなしくなったりする。あれ、どーしてよ。

イメージは期間限定の修行

でも、大丈夫。キツイけど、永遠には赤ちゃん時代は続かない。期間限定の修行みたいなもので、必ず終わりがある。だから、いままさに育児で不眠不休の人は、どうか乗り越えて欲しい。そして、周囲の人は必死で頑張っている彼女や彼を、最大限支えてあげて欲しい。あんなに小さい存在でありながら、赤ちゃんは暴君。育児は24時間の重労働。親にとって、苛烈を極める時期だからだ。

このキツイ数ヶ月を超えると、育児は大変さはありながらも俄然楽しくなってくる。赤ちゃんが幼児に成長するからだ。どんどん変化する。大人もだ。女性の場合、出産で一度見失いかけた自分自身も徐々に取り戻せる。気になる体重や体型だって、ゆっくりと戻る(多少の努力も必要だが)。だからぜひ、0歳児を育てている親たちは頑張って欲しい。

そんな育児に奮闘している人達にすすめたい本が、松田道雄の名著「育児の百科」(岩波文庫)。2009年から上中下3冊の文庫になったが、1967年から版を重ね、常に改訂版が出されていた育児書の大ベストセラーだ。0歳児から6歳児までの親へのアドバイスが月齢ごとにきめ細かく載っている(松田先生の意向により、先生が98年に他界された後は、医学の進歩で変わりやすい新薬の名前や病気の死亡率などは外されている)。

0歳児育児のつらい経験の中で見た希望の光、雪山の地図、それがこの本だった。

松田先生の温かい言葉が孤独な育児の支えに

松田先生は、医学者であると共に市民運動家でもあり、広い分野で活躍された思想家。綴られる文章は、育児書というよりは哲学書のように思えるぐらい人生の示唆に富み、なにより温かい。子育てに揺れる親の心に常に寄り添い、激励の姿勢を崩さない。育児しながら働く母や父の憂いにも、優しく語りかけてくれる。しかも、断定的な物言いは決してせず「あせらなくても大丈夫」という指摘が随所に見られる。本当に、その言葉が常に温かいのだ。私はたびたび、本の中から先生が見守ってくれるように感じた。

各ページには、まるで病室での医師と親とのやりとりを再現するかのような具体的描写も多く、親が誤って思いこんでしまいがちな細々としたつまずきにも、前向きで現実的かつ丁寧な解決案を出してくれている。

読みやすさの正体は、読者という校正者

それにしても、どうしてこの本は、こんなにも痒いところに手が届くように書かれているのだろう。いまいちよく分からない専門用語が中途半端に出てきたり、ふんわりした一般論でお茶を濁すことがないのだろう。なにより、その月齢や年齢に合わせて抱きがちな、親の小さくて具体的なとまどいにちゃんと答えてくれるのだ。泣きすぎじゃないか、うんちしなさすぎじゃないか、食べてくれなさすぎじゃないか、歩くのが遅くないか、言葉が遅くないかといった心配。いわゆる病気じゃないけどぼんやりと不安を抱く事象。そういうものが子育ての悩みの8割強を占めるというのは私の実感だが、そういう当事者にしかわからないような小さな戸惑いを、見事にすくってくれる。私は毎日読んでいくうちに、編集者の立場で、この読みやすさの理由が知りたくなった。

するとその答えは、下巻の巻末の、2009年に文庫化にあたり編集部が書いた付記にあった。つまりこの本は、松田先生が一方的に知識を授けるのではなく、先生が存命中は20年以上に渡り、何度も版を重ねる間に多くの読者から質問や疑問、指摘などをたくさん受け、それをしっかりページに反映させてきたことが大きいようだ。さらには、岩波書店の編集者たちが子どもを持っても会社を辞めずにいたので、親になった彼女たちから指摘の付箋をたくさん付けてもらったと、先生自身も書いている。つまり、あらゆる角度の子育て当事者の率直な意見が、先生の原稿に大きく反映され、その結果、子育てに悩む親が気持ちよく読める文章に仕上がっていたのだ。常に読者が校正者として国内に留まらず世界中にいて、しかもその校正者は、常に最先端の現場を知る人であり、その時代に必要な情報を先生に求めていたのだ。

人間は自分の生命を生きるのだ。いきいきと、楽しくいきるのだ

この本は私にとって、育児書というよりも、もはや人生の哲学書のような存在でもある(もちろん、育児書の内容ですが)。私はその細やかな配慮にあふれた文面にたびたび感動し、励まされてきた。とくに、中巻の11ヶ月から満1歳までの章の「お誕生日ばんざい」にある一説は、子どもを育てる人だけでなく、すべての生きる人にあてはまるメッセージだと思う。

~人間は自分の生命を生きるのだ。いきいきと、楽しくいきるのだ。~

自分の生命をいきいきと楽しく生きる。いつか寿命がつきるまで、これ以上に私が望む生き方はない。人生が辛苦を避けて通れないものだと知った今でも、やっぱりいきいきと楽しく生きるために、人間は生まれたのだと思いたい。そのはずだ。そうでなきゃ、なんであんなに限度を超えた痛みを経て子どもを産むのだろうか。そして自分の育てている子どもも、そうやっていきいきと楽しく命を全うして欲しい。何になるかとか、どんな仕事をするとかいう以前に大事なこと。それを思い起こさせてくれた言葉だ。

また、母親に向けては、こんな言葉もある。

~赤ちゃんとともに生きる母親が、その全生命をつねに新鮮に、つねに楽しく生きることが、赤ちゃんのまわりをつねに明るくする。~

全生命をつねに新鮮に、つねに楽しく生きる。なんて希望に満ちた、人間を応援するシンプルな言葉なんだろう。松田先生の人間をみつめる目の優しさ。もし先生がご健在だったなら、ぜひインタビューをしてみたかった。どんな方だったんだろう。

そしてこの中巻の「お誕生日ばんざい」の章の最後の1節は、ダンテの有名な言葉を引用している。日々容体が変わりやすい0歳児を、不安や恐れを抱きながら育てている親に、誰より子どもをよく見ているはずの自分に自信を持ちなさい、と勇気づけているのだが、私にとってこの言葉は、今も生きる上で心の杖のような役割を持っている。

~長い間かけて自分流に成功しているのを、初対面の医者に何がわかる。
「なんじはなんじの道をすすめ。人びとをしていうにまかせよ」(ダンテ)~

他人には言わせておけばいい。あなたは思うようにすすめばいい。そういうことですよね、松田先生。

ああ、抜粋ではちっとも感動が伝わらない……。
だから、できれば実物を手に取って、このページを開いてほしい。中巻の341ページにある。

この本を読むと、私は育児に限らず、よーし自分の人生を、自分なりに楽しもうと思い直すことができる。0才児の親はもちろん、赤ちゃん時代はクリアしたという目下子育て中の方も、1歳児以降(中、下の2巻)からでもきっとあなたの支えになる。いつでも松田先生が本の中で、きっとあなたの育児の悩みを聞いてくれるから。

あなたはひとりじゃない。


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