【スポーツ批評 第1回 第2章 スポーツ批評の現在地 第1節 スポーツと批評】


摩擦の象徴 —ブーイング—


 「ドーハの悲劇」という言葉はサッカーに精通している人間でなくても一度は聞いたことがあるだろう。1993年10月28日、カタールのドーハでFIFAW杯アジア地区最終予選、イラク対日本の試合が行われた。史上初のワールドカップ出場のためにはこの試合に勝たなければならないという条件の中、日本は90分経過時点で1点リードしていた。しかし、後半ロスタイムにコーナーキックから同点に追いつかれ、試合終了。その結果日本はワールドカップ出場を逃してしまった、という悲劇。この結果を国民に伝えるために、メディアが造り出した言葉が「ドーハの悲劇」だ。

 この言葉を分解すると、「ドーハ」「悲劇」の二つの単語が使われている。例えば「ドーハ」という言葉を「カタール」や「中東」という言葉に置き換えることもできる。ではなぜ、「カタール」や「中東」ではなく「ドーハ」なのか。メディアがある事柄を伝える時に用いる言葉は、様々な候補の中から選別されたものであり、そこには選別した意図がある。試合が行われた場所を指し示すだけならば、「ケニア」のように指し示す場所自体が変わってしまうことがない限り、当然「カタール」でもよい。しかし、幾つかの候補の中から「ドーハ」が選ばれたのは、より小さな単位に絞ることによって、敗北に対する怨念や悔しさなどをそこに集約する効果が生まれるからだ。「あの日、あの時、あの場所で」と条件をより狭い範囲に限定することによって、その場所での記憶が鮮明に蘇るのと同じことである。そしてもう一方の「悲劇」という言葉を使った理由を考えた時、メディアがこの試合やサッカーをどのような姿勢で批評しているのかということがいよいよ見えてくる。「悲劇」や「劇的」に使われている「劇」という言葉は、文字通り「演劇」を指し示している。これらの言葉を用いる理由は、サッカーにしばしば起こりうる、観る者に深い歓喜や落胆を与える場面を演劇に投影し、サッカーを観てみんなで感情を分かち合おうではないかと国民全体を勧誘するためだ。ドーハで起こったあの出来事の悲しみをみんなで分かち合うことによって緩和させよう、あるいはその感情を利用して収益につなげようという意識は、テレビ朝日系列でサッカー日本代表の試合が中継される際に必ず耳にする「絶対に負けられない戦いがそこにはある」というフレーズにもあらわれている。いまなおドーハでの感情を捨てきれぬ世代が、この言葉に動かされ、この勧誘によって、サッカーの見方を誤認した国民が日本代表やJリーグ各クラブのサポーターの中心となって、日本サッカーの質を低下させる要因の1つとなっている。

 浦和レッズのサポーターが熱狂的であることは事実であるが、彼らが真のサポーターかと言えばそうではない。サポーターはクラブやサッカー選手にとって、最も身近に存在する批評家として存在しなければならない。グアルディオラがFCバルセロナの監督を退任して以降、カンプ・ノウ(FCバルセロナのホームスタジアム)の観客動員数は減少傾向にある。それは、1章で述べたように、FCバルセロナのサッカーの質の低下を受けてのことである。2014-2015シーズン、レアル・マドリードの試合中に観客席で白いハンカチが振られる光景が目に付いた 。ヨーロッパの試合では、応援するチームが不甲斐ない試合を展開しようものなら、遠慮なく帰路に着くファンも多い。我々が観にきているのはフットボールである、という堂々たる批判によって、フットボールの質は維持されてきた。クラブとサポーターの良好な関係はクラブのHOME成績に顕著に現れている。

 2015-2016シーズンのリーガエスパニョーラにおいて、HOMEでの勝ち点がAWAYでの勝ち点より下回ったチームは全20チーム中、デポルティーボ・ラ・コルーニャのみ。プレミアリーグでは全20チーム中3チーム、セリエA(イタリアの1部リーグ)においては20チーム全てがHOMEで好成績を収めている。ところが、2015年のJリーグでは、全18チーム中HOMEでの勝ち点がAWAYでの勝ち点を下回ったのは、10チームもあった 。つまり、ヨーロッパのクラブは圧倒的にHOMEに強いのだ。スコットランドの強豪クラブである、セルティックFCはHOMEで無類の強さを発揮するチームとして有名である。セルティック・パーク(セルティックFCのホームスタジアム)での試合ではしばしば番狂わせが起こり、2016-2017シーズンのCL(UEFAチャンピオンズ・リーグ)のグループステージ第2戦でも、イングランドの強豪マンチェスター・シティーを相手に3対3と健闘した。その闘志あふれるアグレッシブなチームのプレーとサポーターの情熱的な応援が一体となってAWAYチームにとっては脅威となっている。FCバルセロナのサポーターたちは、素晴らしい一瞬を見逃すまいと、静かに一つ一つのプレーを見つめる者がほとんどで、声を出して応援する者はゴール裏のわずかなスペースにしかいない。まさに、相手DFにわずかな隙が生まれるのをひたすら待つようにボールを保持し続けるFCバルセロナのプレーと一体化している。欧州クラブとサポーターの良好な関係は、戦い方の使い分けにも反映されている。

 カンプ・ノウでFCバルセロナと対戦するほとんどのクラブは、徹底的に自陣に引いて、ゴール前のスペースを消す守備的な戦術を採用する。最初から主導権を与えるようなその選択は、勝ち点1を持ち帰ることができれば上出来という消極的な姿勢だが、HOMEではそうはいかない。結果を残しながらも、その守備的なサッカーを理由にレアル・マドリードがカペッロを解任したように、スペインでは攻撃的なサッカーが好まれる。敵地で守備的なサッカーを選択したチームが、多くのサポーターが観ているホームスタジアムでは戦術を変更し、勇敢に主導権を握ろうとするチームが少なくないのは、サポーターとチームの信頼関係が成立しているからこその現象だ。

 ではなぜ、JリーグクラブはHOMEで弱いのか。その答えを出すためには、Jクラブを応援するサポーターがスタジアムに何を観に来ているのかを考える必要がある。前述したように、日本人はメディアによって、サッカーとは“得点や失点などに誘発される感情を分かち合いながら見るものである”という観戦術を植え付けられている。つまり、サッカーとはエンターテインメントであると。そのような視点でサッカーを観ている者にとっては、例えばファビオ・カンナバーロの味方に対する数センチ単位でのポジショニングの指示や、ダビド・ビジャの相手DFラインをいとも簡単に抜け出すダイアゴナルな動きなどどうでもよく、単に得点や勝利という結果が見たいだけなのである。選手たちも、いかに観客を喜ばせるかに執心し、ゴール後に注目を引きつけ、喜びを増幅させる手段として、練りに練られた滑稽なパフォーマンスを演出する。このような関係の間に真の信頼など生まれるはずもなく、「期待」に押しつぶされた彼らはHOMEで負けるのだ。感情を分かち合いたいのなら、有効な手段は他にもたくさんある。自分たちの叫び声が選手の後押しになると錯覚した彼らの中には、ピッチに背を向けながら懸命に太鼓をたたくことだけに全力を注ぐ愚か者もいる。

 日本の観客の応援が選手に対して悪い影響を与える出来事があった。女子テニス東レ・パンパシフィックOP第3日。シングルス2回戦で敗れたクルム伊達公子について、次の記事が掲載された。


■ ため息にうんざり

 クルム伊達が有明の観客にいら立ちを募らせた。第2セットのタイブレークでダブルフォルトしたクルム伊達は、観客席から漏れるため息に「ため息ばっかり」と叫んだ。その後は集中力を失い、ストレート負け。うつむいたままコートを去った。「ため息でエネルギーが吸い取られてしまう。(日本の観客の)テニスを見るレベルが上がってこない」と試合後の記者会見でも苦い顔だった。


 プロテニス選手(ATPツアーに参加するランキング上位の選手)は、1年を通して世界中至る所で行われているツアーに参加する。そのため、日本人選手だとしても国内での試合よりも海外の試合の方が多い。海外の試合では、自分の贔屓の選手がいたとしても、優れたプレーに対して賛辞を送り、ミスに対してため息を漏らすことはまずない。支持する選手の“勝ち”ではなく、優れたプレーに“価値”を見出すその姿勢は、カンプ・ノウの観客と同じだ。こうした観客の姿勢に応えるように選手はプレーを提供する。ところが、日本の観客は最初から彼女の勝利を観に来ているため、そのミスに「あー」と声が漏れてしまう。落胆した観客を前に、プロテニスプレーヤーとしてやることはもはやない。真の観客の前でプレーすることに慣れているクルム伊達公子が、日本人の観る姿勢に対し、怒りが湧くのも頷ける。このように、日本人はスポーツを観るときに、必ずといっていいほど「期待」する。しかし、スポーツは「期待」通りの結果を提供してくれるとは限らない。「期待」が裏切られれば落胆が残る。「期待」通りになったとしても、そこから得られるものはじゃんけんで勝った時のような、消費され、やがては消えゆく空疎な感情だ。勝利や得点に固執するのは、結果で判断することが最も単純で楽な手段だからである。EURO2016で度肝を抜くようなミドルシュートを決めたモドリッチや非凡なボールスキルを持ちながらチームのためにハードワークもこなし戦術理解力も高いラキティッチ要するクロアチアが、守備的で凡庸なサッカーに終始したポルトガルにベスト16で敗れ、そのポルトガルが優勝してしまったように、スポーツには内容に比例しない結果が多く存在する。ジネディーヌ・ジダンがCL決勝で魅せたCL史上最高のゴールと評されるあのボレーシュートとその辺で頻繁に見られるただのゴールは同じ1点なのだ。結果への固執はそこで起こっている真実を曇らせる。観客はスポーツにしばしば起こる「驚き」を目の当たりにする権利を有しているだけなのだ。



 審判の微妙な判定に対し、特にそれがAWAYチームの有利に働く場合、HOMEのサポーターは強烈な「野次」を浴びせる。この「野次」もある種の「批評」になるわけだが、日本の観客がブーイングする場合、それは単に自分たちの「勝利」を妨げる存在に対する不満でしかないが、審判に対するブーイングは本来違ったものでなくてはならない。スポーツにおいて審判の判定は絶対であり、ピッチを支配しているのは、「司令塔」ではなく審判である。サッカーにおけるゴールラインテクノロジーや、テニスのチャレンジシステム導入に代表されるように、その権利は徐々に奪われているものの、民主主義社会において、審判は例外的に権力を与えられた存在である。スポーツには野球の投手や、サッカーのゴールキーパーなど特権が与えられているものが多く存在する。スポーツが持つ“権力の集中”という特質は、全員に平等な権力が与えられている民主主義とは相反する。ブーイングは、民主主義の、権力に対する抑制として機能しなければならず、ブーイングこそが、スポーツと大衆性の摩擦の象徴といえる。

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