掌編「便所スマホで解消」919文字
妻は、私がスマホを持ってトイレに入るのをひどく嫌がる。
漫画や雑誌を読むのと同じノリで、便座でスマホをいじるひとときは私にとって落ち着く時間なのだが、妻にはそれが理解できないらしい。
トイレでは排泄に集中するべきで、用が済んだらさっさとトイレから出ろ、というのが妻の主張だった。
それに、もし子どもが真似をしたらすごく嫌だ、とも言った。
半年ほど前、私たちは初めての子を迎えた。
妊娠中の激しい悪阻を必死に耐え抜き、かなり疲弊しながらも頑張ってくれた妻に感謝しながら、何にも代え難い家族の尊さを実感した。
産後の身体は見た目には普通だが、体内は傷だらけなので回復するまで安静にする必要がある、と“パパの出産準備”みたいな冊子で読んだ。
実際、産後1ヶ月くらいは妻の血色は良くなかったし、子の世話という慣れない生活によるストレスなどで心身ともに見るからに消耗していた様子だった。
私は私で、何か出来ることはないかと気を配りつつ、かれこれ1年近くトイレでひとり発散していた。
そう、男という生き物は…。
性欲はバイオリズムに則り度々訪れたが、妊娠中から産後半年ほどの今まで、妻の体調を考えれば彼女に私の相手などしている余裕はないことは明白だった。
そんな状況下で、スマホはそれなりに重要なアイテムとなった。なるべく夜、妻と子が寝た後にひとりトイレに籠った。
スマホの画面を眺めながら、いつものように佳境に入るとノックが聞こえた。
「大丈夫?トイレ、使いたいんだけど…」
妻が起きてきたのだ。
私は一瞬考えたが、手を止めてズボンを上げ手を洗ってトイレから出た。
「ごめん、おまたせ」
そのまま私が寝室へ向かうと間もなく妻も戻ってきた。
彼女は、ベッドに仰向けで目を瞑っている私の隣に滑り込むと囁いた。
「…ごめんね、ずっと。気づかなくて」
彼女のほうに身体を向けると、彼女もこちらを向いていた。
「…してみようか、久々に」
「体調は大丈夫なのか?傷とか」
「しんどかったら言うから」
「…そっか、わかった」
久しぶりの温もりは、少しの緊張と恥ずかしさがあったが、何となく感じていた心の距離が埋まった気がした。
彼女もまた、満足げに微笑みながら私に身体を寄せた。
「トイレに持ってかないでね、スマホ」
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