ブルックナーの交響曲聞き方ガイド(入門編)
ブルックナーの交響曲は、クセが強い。
曲の長さ、音楽の展開方法、オーケストレーション、いずれもロマン派屈指のクセの強さである。
一方で、作曲者の生前から今日に至るまで、熱狂的な信奉者やマニアックな愛好家がいるのもまた事実。
彼らはただの変わり者なのだろうか。あるいは、ブルックナーの交響曲にはどんな秘密が隠されているのだろうか。
今回は、ギュンター・ヴァント指揮、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団による往年の名演奏をめぐりながら、ブルックナーの交響曲の魅力に迫っていきたい。
(なお、時代を感じるむさくるしい硬派な映像が続くことになるのであらかじめご承知おきを…)
1.圧巻のフィナーレ
ブルックナーの交響曲は、とにかくフィナーレがすごい。
前後関係は無視して、まずはフィナーレだけを聞いてみよう。
交響曲第5番の場合
1:10:50あたりから1:13:40までのラスト三分間がとにかくすごい。
ホルン、トランペット、トロンボーンを中心とする絢爛豪華のフィナーレはまさに圧巻。
交響曲第8番の場合
第5番もさることながら第8番のフィナーレは、もっとすごい。
1:25:00あたりから1:28:20までのラスト三分間は、空前絶後である。
高みを目指し、じわりじわりと盛り上げていくブルックナーのフィナーレは、他に類を見ない圧倒的なスケールで我々に迫ってくる。
このとおり、ブルックナーのフィナーレの壮大さは、まさにケタ違いなのである。
2.アダージョの恍惚
ブルックナーのアダージョは、唯一無二のものがある。
生粋のメロディメーカーとしてのブルックナーの才は、ひとえにアダージョに開花する。
交響曲第6番の場合
20:10あたりから22:20あたりまでのひとくだりを聞くだけでも十分だろう。
絵面はさておきうっとりするほど流麗な音楽である。
これぞ後期ロマン派オーケストラのアダージョ。
ブルックナーの交響曲は、フィナーレだけでなく、アダージョも非常に魅力的なのである。
交響曲第7番の場合
20:55から始まるアダージョは、ブルックナーの到達点の一つである。
弦楽中心のディープなサウンド。
ホルンやワーグナーチューバ、トロンボーンといった中低音の金管がもたらす魅惑のハーモニー。
そこに広がるのは、他のどの作曲家とも異なる、超然恍惚のアダージョである。
ブルックナーのアダージョ、とりわけ第7番以降のアダージョはいずれも恍惚の度合いが高く、聞けば聞くほどに魅了される。
3.クセの強さと理解へのヒント
ブルックナーの交響曲は上記のとおり非常に魅力的ではあるが、それにしても、クセが強い。
なぜここまでクセが強いのか?
以下、彼の交響曲への理解を深めるための「三つのヒント」をご紹介したい。
長さについて
周知のごとく、ブルックナーの交響曲は、とてつもなく長い。
どのナンバーも基本的には一時間以上、平均するとだいたい70分から80分くらいの長さになる。
人間の集中力が、もって40分から50分ぐらいだとすると、それを遥かに超える時間的内容であると言える。
ブルックナーの交響曲は、なぜ異様なまでに長いのか?
それは、単に作曲者の(一風変わった)性格によるものなのかもしれない。
例えば、彼の書簡を読んでみると、これまた実に長い。
長いというより、冗漫なのである。くりかえしや念押し、再確認が多く、読み手の誤解を避け、思いをなるべく正確に伝えようとするあまり、ありとあらゆる言い回しで同じことを何度も何度も述べる傾向にある。
作曲においても、そのような性格が影響した可能性はある。
しかしその一方で、ブルックナーは極めて意図的に、長い交響曲を書こうとしていた節がある。
交響曲第9番(最終楽章が部分的に未完成)に関して、近年、その補筆完成版が相次いで発表されている。その数なんと10種類以上。もちろん、これはブルックナーの研究者や楽譜校訂者がみな揃いもそろって想像力猛々しい訳では、決してない。
要因のひとつとして、残されているブルックナーのスケッチに「最終楽章が第何小節目で終了するのか」がメモされているのである。
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つまり、ブルックナーは、最終楽章(ひいては交響曲全体)が全何小節の長さになるのか、あらかじめ構想していたようなのである。
となると、作曲者としては「交響曲を何となく書き進めていったら結果的にとんでもない長さになりました(てへぺろ)」というわけでは、どうもなさそうなのである。
(ブルックナーの脳裏には偉大なるベートーヴェンの第九(これまた結構な長さである)があったものと思われる。交響曲の長大化構想は交響曲第2番以降、ブルックナーの基本理念であった。)
ブツ切り感について
曲の長さ以上に気になるのが主題どうしのブツ切り感ではないだろうか?
音楽が盛り上がってきたかと思うと突然、打ち切られ、何の前触れもなく別の雰囲気の音楽が始まる。音楽のドラマ性(起承転結)がまったく読み取れないまま、音楽は先へ先へと進んでいく。
より分析的に言えば、主題どうしが、あたかも相互に無関係に、あるいは並列的に提示されていくのである。
ブルックナーの交響曲において、主題と主題は、明確に分離された状態で提示されることがほとんどである。
原因ははっきりしている。トラウマである。
ウィーン移住後、最初に着手した交響曲に対して高名な先生から寄せられたコメントは「主題はどこにあるのか」というものだった。
意気込んで描いた花の絵に対して「花はどこにあるのか」と言われるに等しい体験だろう。
主題と主題の接続ないし分離の方法は、作曲者の永遠のテーマだったようで、その都度、なめらかさと分断を行きつ戻りつしているようにも思える。
交響曲第5番とおおむね同時期の弦楽五重奏曲では、その第1楽章において、第1主題と第2主題はあまりにも巧妙に接続されていて、その境目を見つけるのはほぼ不可能なほど非分離的に提示されている。
結果的に、ブルックナーは「お聞きの皆様、そうです、ここまでが、第1主題です! そして、ここからが、第2主題です! ええそうです、今まさに、第2主題が開始されたのです!」と言わんばかりの作曲スタイルを完成させることになった。
主題どうしのブツ切り感は、もはやそういうものとして受け入れるしかないのだろう。
(なお、音楽史的な観点から言えば、このスタイルはマーラーやロットに直接的な影響を与えた。彼らの交響曲においても、第1主題と第2主題は明確に分離された状態で提示される傾向にある。)
ワンパターンについて
ブルックナーの交響曲は、究極のワンパターンである。
(正確には、交響曲第2番以降の交響曲は、ワンパターンである。)
楽章構成にせよ、ソナタ形式にせよ、基本の型は変わらない。
また、具体的な音楽展開においても、同一フレーズを(ワーグナー風に)転調しながらひたすらリピートする手法が印象的である。
どのナンバーを聞いても同じように聞こえる、マンネリズムだという批評は、しかし、浅はかだろう。
ジョルジョ・モランディが静物画を描き続けたように、ジョルジュ・ルオーが聖画を描き続けたように、ブルックナーは交響曲を書き続けた。
仏像彫刻家にとって、仏像を彫ることに終わりはない。仏像を彫ることを辞めるときは、死ぬときである。
1896年10月11日午後3時30分、ブルックナーはこの世を去った。午前中に取り組んでいたのは、交響曲第9番の最終楽章であった。
4.まとめ
以上を踏まえ、ブルックナーの魅力が凝縮された交響曲第9番(未完)をダイジェストで見ていきたい。
23:30から25:50の第1楽章結尾と、37:51から始まるアダージョが聞きどころである。
(なお、第1楽章の第2主題も実にのびやかで、大変魅力的である。)
圧巻のフィナーレとアダージョの恍惚は、第9番でも変わらない。
なお、最終楽章は上記のとおりスケッチ状態で作曲者がこの世を去ったため、補筆完成版を聞いてはあれこれ思いにふけるのみである。
クセ強めながらも、ブルックナーの交響曲には特有の魅力がある。
聞いてみて、少しでも惹かれるなら、才能アリ。
ぜひブルックナーの交響曲の森の散策をおすすめする。