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現地コーディネーター:第24話

 深い海に沈んだように眠り込んだエドウィンはズキズキする頭痛と共に目を開けた。目の前に褐色の滑らかな丘陵があり、その頂上にコーヒー豆のような乳首がある。エドウィンはフリアナの裸の胸をそっと撫でた。二日酔いはひどいが、ずっと奥に閉じ込めていた頑固なできものが消えたような感覚があって清々しい気分だった。時計はすでに昼過ぎを示しているが、この甘美な時間をずっと味わっていたい。

 エドウィンがそっと口づけをすると天使はゆっくりと目を開けた。エドウィンと目が合うと彼女は小さく微笑んでエドウィンの頰に軽くキスをした。エドウィンはたまらず彼女の顎を手で優しく包み、彼女の裸体を覆う掛け布団をはがした。

 カーテンの隙間から力強く注ぎ込む日の光で露わになったフリアナの体に大きな痣を見つける。脇腹に一つ、背中二つ、腰に大きいのが一つー思わず凝視するエドウィンに気づくと彼女は隠すように掛け布団を肩からかけてベッドの上に座り、急に真顔になってエドウィンを直視した。

「昨日は暗くて見えなかったのね」
「何があったの?」

 エドウィンは彼女の瞳と痣を交互に見つめた。

「本当のこと聞きたい?がっかりするけど」
 エドウィンは黙って頷いた。

「私は娼婦なの」

 驚きはしなかった。エドウィンは口をつぐんだまま、真っ直ぐ彼女を見つめたまま、続く言葉を待った。

「あなたはあまりにスウィートだから、このまま告げない方がいいのか悩んだけど。素敵な時間だったし。でも本当の私を知ってほしいと思ったの。なんでかわからない。ごめんね」

 フリアナの大きな茶色の瞳が微かに潤んでいる。
「この痣は先週の客よ。泥酔した汚い白人。女を叩いたり首を閉め
たりするのが大好きなクズ」

 エドウィンはまるでそれが自分に起きていることのように歯を食いしばり、深呼吸をし、ようやく口を開いた。
「君のこと、好きだよ。それは変わらない」

 シンプルな単語の羅列はフリアナの大きな瞳をさらに潤ませる。

「君の仕事、尊敬する。その客を殺したい」

 フリアナはエドウィンの真剣な表情をみて、微笑した。
「尊敬なんてされる事じゃないわ」

 エドウィンは彼女の濡れた頬を手で拭った。尊敬しているのは本当だった。彼女は自分一人でこの異国を、弱肉強食の世界を女一人で生きてきたのだ。運命なんかに身を任せていたら彼女は貧民街でとっくに死んでいたかもしれない。でも彼女は運命に抗い、どんな暗闇に身を置いてもこの太陽のような輝きをひたむきに守り抜いてきたのだ。彼女が持ち得ないものを全て与えられて生まれ育った自分に、彼女の何を責められるだろうー

 そんな想いをどこにも運べないまま沈黙が部屋を支配する。

 フリアナは誤魔化すように微笑み、小さくなったエドウィンの性器に顔を近づけて指でつまむと、悪戯っぽくエドウィンを見上げた。
「最後にもう一回だけ、どう?」

 エドウィンはフリアナの顔を自分の顔の位置まで持っていくと、彼女の瞳の中を覗き込んだ。
「もちろん」

 エドウィンは寝返ってフリアナを下にすると彼女の性器に指を入れて彼女の一番喜ぶポイントを探った。喘ぎ声と体の反応が大きくなっていく。

「早く、入れて」
 その甘い囁き声にスイッチが入ったように、エドウィンは彼女の尻を強く掴み、彼女の温かなエッセンスにゆっくりと入っていった。誰も知り得ない彼女の要素の全て知り尽くしたかった。野生じみた嬌声と共に滲み出る汗が絡み合う。貪りあいは時間の概念を越え、二人は全く同時に頂天に辿り着いた。

       *

 カズマはフレンチクオーターの外れで酒場を探していた。足枷されたように体が重く、なかなか真っ直ぐ歩くことができずふらついてしまう。少し歩くと剥き出しのレンガが積み上がって出来た古めかしい建物が目に入る。軒下に掲げられた古い木製の看板がバーである事を示し、カズマは躊躇わずにその大きな扉を開けた。

 高天井にアンティークの天井扇を吊るした室内は外から見るより大分広く感じられる。レンガの壁に囲まれた十卓ほどのダイニング•テーブルは全て人で埋まっているが、入ってすぐ右側にあるバーカウンターにはいくつか空席が見られた。

 カズマは一番入り口に近い席に迷わず腰を下ろした。店内に流れるラグタイム•ジャズの柔らかなメロディがちょうど心地いい。男性シンガーのしわがれた低音ボイスがトランペットソロに切り替わると、カズマは失いかけた正気を少し取り戻していった。

 バーの向こう側では白髪の黒人バーテンダーが一人で次から次と忙しなく客の注文を聞いている。カズマはバーに身を乗り出し、まるで中毒者のように大げさに手を振って彼の注意をひこうとした。

 バーテンダーは犬を相手にするように片手で待ての合図をし、カズマより後に現れた若いヤッピー風の白人客の注文を聞き始めた。久々に露骨な差別をされた気がしたが、いちゃもんをつけたり新しい店を探す気力は今のカズマには無かった。

 色のついたカクテルを客に出し終わるとバーテンダーはカズマの目の前にのそのそと歩み寄り、悪びれる事もなく注文を聞いた。カズマは無愛想にメイカーズ•マークをストレートで頼む。

 バーテンテンダーは後ろの棚から手際よくボトルを奪い、メゾンジャーになみなみとその茶色い液体を注ぎカズマに差し出した。ニューヨークのバーよりずっと気前がいい量だ。料金もほぼ半額の七ドル。さっきの無礼は許す事にしよう。カズマは少し気を良くしバーボンを勢いよく喉に流した。

 アルコールが全身の悪寒を指先までじわじわと温める。しかしそれが胃に到達すると急に吐き気をもよおした。額からは脂汗が流れてくる。まだたったの一杯目だっていうのにこんな事は初めてだ。カズマは腰を上げるとバーの奥手にある階段を一段飛ばしで下り、トイレにまっしぐらに駆け込んだ。

 前者の大便の擦りついた便器の前に跪き、えずく。乾いた口腔から分泌されるのは粘ついた少量の唾液だけだ。鈍器で殴られたように頭が痛む。カズマは糸の引いた液を吐き続けてから嘔吐をあきらめ、洗面台の冷水で顔を勢いよく洗った。落書きだらけの鏡にうつる自分の顔はぐにゃぐにゃに歪んでいる。

 ジーパンのポケットの中で携帯が震える。シャーロットの誕生日のリマインダーだった。カズマはうまく機能しない頭で、それでも忘れないうちにメールを打ち込んだ。

「お誕生日おめでとう。もうすぐ戻るから。アイラブユー」
  
 自分でも呆れるほど陳腐な定型文これしか思いつかないのだから仕方ない。忘れず送ることに意義があるのだと、カズマは自分にそう言い聞かせ送信ボタンを押した。

 上りの階段は妙に長く感じる。階上から聞こえてくる音楽は自由な旋律のバップ•ジャズに変わっていた。階段に足を踏む度に眩暈がし、カズマは老人のように手すりにつかまりながらのそのそとフロアにあがった。

 さっきまで空いていた自分の隣の席に客が座っている。こちらに背を向けて座っている女がバーの方を向き直る。その横顔を見るとカズマは思わずのけぞった。

 ニューヨークのキャバクラで一緒に働いていたリンだ。

 まだ幻覚を見ているのか?カズマは頭を上下左右に振るが、彼女は確かにそこにいた。リンも近づいてくるドレッド髪のアジア人に一寸遅れて気づくと、同様に仰天した顔でカズマを凝視した。

「カズマくん…だよね?こんなところで何してるの?」

 それはこっちの台詞だ、カズマはそう言いたい気持ちを抑えた。そして自分がひょんな事からニューオーリンズにきて、ひょんな事からこのバーに来たという事実を十五秒にかいつまんで説明した。もちろん今の自分が現実と幻覚の境にいるという事は省いて。

 リンはカズマの大雑把な説明を首を傾げつつ聞き、自分がここに来たきっかけを明朗に話した。店の常連客からマルディグラの話を聞いて盛り上がり、どうしても行きたくなったので彼にねだった、というシンプルな経緯。

「ほんとびっくり。こんな事ってあるんだね。カズマくんあの事件から来なくなっちゃったからどうしたのかな、って思ってたの」
「事件なんて大袈裟な。店長は元気?」
「うん、相変わらず頑張ってるよ。あの後始末は大変だったみたいだけど。カズマくんはもう伝説になってるよ」

 リンが笑いを堪えて言う。カズマは改めて申し訳ない気持ちになった。

「でも今、仕事は何してるの?」リンが続けて尋ねる。
「今、実は仕事中」カズマは再びウィスキーを流し込んだ。

「マルディグラの日に一人でバーで飲む事が?」
「いや、そういうわけじゃない。日本から来た知り合いの息子のアテンドしてるんだ。今たまたま別行動しているだけ」
「仕事なのに別行動なんてしてていいの?」

 カズマは苦笑しながら答える。
「今は特別なアテンドがついてるから。アウトソーシングとでも言うか」

 そういえばエドウィンはどうしているだろう?フリアナと過ごせる時間はもうすぐ終わるはずだ。

「気楽な仕事ね。私も早くあの仕事やめたい。夜の九時から朝三時まで人の孤独をなめて疑似恋愛するなんてさ、ストレス溜まるよ、ほんと」

 リンはカズマの反応を探るように顔を覗き込むが、カズマはぼうっとバーの方を無言で眺めている。沈黙に耐えられずリンはひたすら言葉を重ねた。

「今回一緒に来た客はもしかしたらこの人いいかも、って思ったのよ。いつもこんなことしてるわけじゃないの」(自己弁護的に)

「でも一緒に旅行したら全然だめだった。ずっとおどおどしてちっとも楽しませてくれないし。日本の男って日常の外に出ると頼りないよね」(同意を求めるように)

「しかも今年で転勤の任期終了だから日本に帰るとか急に言われてさ」(同情を求めるように)

「疑似恋愛は店の中で完結するのがベストなんだ、って気づいちゃった」(自己憐憫的に)

 自分にとってはどうでも良い独白にカズマは辟易し話題を変えた。

「リンはニューヨークで他に何してるんだっけ?語学学生だっけ?」
「別に何もしてないよ。ただ住んでるだけ。ビザをキープするために語学学校に籍はおいているけど通ってないし。ただニューヨークが好きなだけ。で、生活のためにあの仕事してる。それだけよ」

 リンはチェリーを二つ浮かべた薄ピンク色のカクテルをグビッと飲み込んだ。「それの何が悪い?」とリンが心の中で毒づくのが聞こえ、カズマは心の中で「何も悪くないよ。」と答えた。彼女も精一杯生きているのだーあの弱肉強食の街で自分の卑小さと戦いながら。

「ニューヨークって何か素敵な事をやってないと負け犬みたいに思われるでしょ。アーチストとかお金持ちとか。毎日の生活もめまぐるしいしさ…」

 今は向き合いたくない話題だーカズマは矛先を変えた。
「アメリカで狭い日系社会で暮らす人ってなんでなんだろう?」

「混じるのが怖いんじゃない?日本人って結構独特の価値観があるし、微妙な空気とか。日本人同士だと雰囲気で何となくわかるじゃない?」
「じゃあ何でわざわざアメリカにいる?俺はずっと帰ってないから想像だけど、日本の方が色んなものが不自由なく揃って便利じゃん?」
「うーん。やっぱり自由だから?変なしがらみもないし…」
「でもアメリカってそんなに自由かな?」

 リンはまるでカズマがタブーの発言をしたように声を荒げる。
「そりゃそうでしょ?なんで?」

 カズマは自分の理解しているアメリカの事実を淡々と挙げていく。
「法律は厳しいし、どこでも身分証チェックされるしさ、移民やマイノリティに与えられる機会なんて白人のおこぼれ程度じゃん。よっぽど飛び抜けた才能があれば別だけど。白人だって本当に自由を謳歌出来てるのは脈々と財産やコネクションをうけついだ一部の人間だけだし」

 リンがやるせない表情でこちらを見つめている。何だか負け犬が遠吠えしてしまった気がしてカズマはまた話題を戻した。

「リンの連れはどういう人?日本人としかつるまない?」
「そうね。まあ彼は会社の命令で渡米しただけだし、本社の監視もほとんど無いから適当に悪さして、任期終えたら普通に日本の会社員生活に戻る。その後はすぐ出世。ほんとおいしいとこどりよ」
「それで日本では『俺はニューヨークの裏側まで全部知ってる』みたいな顔すんでしょ?」
「そうそう」

 リンとカズマは交互に笑った。そんな連中はお互い店でたくさん見てきたのだ。リンの笑い声は日本人独特の甲高さで、頭痛には響くがどことなく懐かしさがあった。

 ふと近くのテーブル席から「ジャップ」という単語が発されるのをカズマの耳が捉えた。反射的に振り返ってそちらを睨みつけると粗暴さが身体中から滲み出た白人の三人組がこちらを見ている。男の一人はリンの体を上から下までなめ回すように見ながら下品な声で笑っている。

「親父達には本当に感謝だ。原爆でジャップを一掃してなきゃ今頃どうなったかわかったもんじゃない。卑怯な連中だからな」

 これは挑発だ、相手にしちゃいけないー頭でそうはわかっても、身体が先に反応してしまう。カズマは回転式のスツールを半分捻らせて男たちに正対すると、黙ったまま彼らを直視した。男たちはカズマなど目に入らないふりをし、会話を続けた。

「代わりに惨めなアメリカ人ウォナビーのドレッド頭の男が育っちゃったみたいだけどな」

 男たちはまた大声で笑いそのまま会話を続けようとするがカズマの低い声がそれを遮った。
「お前らより英語わかるんだからさ、口の聞き方に気をつけろよ」

 男たちは初めてカズマの存在に気づいたかのように、大袈裟な素振りで一斉にカズマの方を見た。八の字型の口ひげを生やした男が口を開く。
「気をつけるべきは誰だかな。ケツの穴に銃ぶちこんで欲しいか?お前みたいなカマ野郎は気に入るかもだけどな」

 男の腰には拳銃のホルスターがぶら下がっていた。そうだ、ここはニューヨークではない、銃規制などない南部のルイジアナ州なのだ。そして彼らは銃を持つ限りは無敵なのだ。

「姉ちゃん、白人のチンポ食べた事あるか?お前の彼氏よりずっと食べ応えあるぞ。ジャーマンソーセージ」

 顔がゆでダコのように赤くなったスキンヘッドの大男が下品な声でリンに声をかける。リンはぼそっと日本語で呟く。
「誰がお前の汚いチンポなんて触るかよ」

「おい、今このビッチは何て言ったんだ?」
 ゆでダコが立ち上がりカズマとの距離を詰める。
「Go fuck your Mom (母ちゃんとやってろ)、YANKEE.」

 背後のリンが今度は英語で罵るとカズマは思わずニヤッとした。気が強い女ほど守りたくなる。ゆでダコは今にもこちらに飛びかかりそうな形相でカズマの顔に自分の顔を近づけた。酒気をふんだんに帯びた口臭に思わず顔を逸らしそうになるが、目を細めながら男の眼を睨み続けた。

「どうしたんだ、ボビー?なんか問題でも?」
 若い白人のウェイターが、一触即発の気配に気づき、両者の間に慌てて割り込む。どうやらこの男たちは店の常連らしい。ウェイターはなだめるようにボビーという名のゆでダコ男の肩を叩き、テーブル席の方に連れ戻した。

「あのジャップがオレらにケンカ売ってきたんだ」
 ウェイターにもこれがどちらが仕掛けたケンカなのかは自明だった。前にもこんな事はあったのだ。それでもウェイターはカズマの肩を軽く叩き、諭すようなトーンで伝えた。

「申し訳ないけど今日は引き取ってくれるか?その方が君のためだ」
「俺が帰るのか?こっちもこんなクソみたいな所で飲むのはごめんだ」 
 カズマは怒りを抑えて深呼吸をした。

「何で?カズマくん何も悪くないじゃん?何で戦わないの?」
「こんなクソみたいな事で戦うなんて時間の無駄だ。オレはもう疲れたんだ。君はいたけりゃいればいい」

 カズマは革ジャンを羽織りながらバーテンの方を振り返った。
「もちろんここは店のおごりだよな?」

 黙って頷く初老の黒人の表情には同情が見えた。カズマは出口の扉に手をかけると、店中に聞こえるくらいの大声で叫んだ。

「 To hell with the Country of Freedom! (何が自由の国だクソ野郎!)」

(第1話〜第23話👇)


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