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現地コーディネーター:第11話

 その夏のブルックリンはとにかく暑かった。カズマはアーチスト仲間四名とシェアするアトリエに入り浸っていた。その頃はとにかくアイデアが留めどなく溢れて時間が足りなかった。真っ白なキャンバスはそれを形にできる無限の可能性を持ち、描いていない時は生きている感覚がなかった。

 そうしたカズマの作品の幾つかは業界の中でも少しずつ注目を集め、コミッションとしての仕事も徐々に増えていった。そして当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったマッド•ドッグから二人の個展をしようと持ちかけられたのだ。

 カズマは油彩筆と書道用の毛筆を使い分け、墨で日本語を書き殴ったグラフィティのいくつかを出品した。自分に決まったスタイルというのは無かったが、この種のグラフィティはアメリカ人からはエキゾチックに見えるのか、なぜか評判が良かった。

 マッド・ドッグの人気のおかげでオープニング•レセプションは満員だった。カズマは香水のブランドが提供する無料のシャンパンをがぶ飲みしながら、自分を有名にしてくれる人脈はないか、鋭く目を光らせた。営業戦略に長け交友関係の広いマッド・ドッグとは異なり、自分の周りには自分と似た境遇のアーチストの卵しかいなかったので、実際に業界を回している力と金のあるコレクターが集まるこのレセプションは千載一遇の機会だった。

 全身黄色のダブルスーツ姿に蝶ネクタイをした男が自分の絵の前で立ち止まると、カズマはハイエナのように駆け寄った。自分の記憶が正しければチェルシー地区の有名ギャラリーのキュレーターだったはずだ。

「その作品どう?」
 勢いよく近づくドレッド頭のアジア人に、男は多少面食らった表情で身を半歩引いた。

「独創的だけど、売るのは難しいかもね。今の時代にはちょっとはまらない。個人的には嫌いじゃないけどね。エネルギーあって」

 カズマは少し強めのトーンで質問を続けた。
「どんな時代だったらハマるの?どんな絵だったら今売れるの?」
 男は顔つきを引き締めた。穏やかな目の奥が鋭く自分をジャッジ
しているのはカズマの鈍感さを持ってしても自明だった。

「時代のニーズをリサーチするのがアーチストとして最低限の仕事だ。ただ描きたい物を描くのがアーチストじゃない。マッド・ドッグはクレイジーなふりをしつつ人が今何を求めているか分かっている。実にクレバーだよ」

 男の目線の先にいるマッド•ドッグはライブペインティングをしている最中だった。真っ黒いキャンバスにスワスティカをデフォルメしたロゴや、KKKを彷彿させる覆面騎士など扇動的なイメージを次々に原色で足していく。

「現代アートでは文脈が全て。オリジナリティなんてもう存在し得ない」
 男は数秒の沈黙の後「グッドラック」と言い残して立ち去った。

 芸術を作るのに文脈や歴史を勉強して計算して売れそうな所に意図的に当てる事が必要?父親がやってきた広告の仕事と何も変わらないじゃないかー

 カズマは派手なアクションでペンキを壁にぶちまけ客を沸かせているマッド•ドッグを眺めながら肩を震わせた。

「ちょっと話していい?」

 カズマの強ばる背中を撫でるように穏やかな声がかかる。振り返ると若い女が急拵えの笑顔で立っていた。緑色の大きな瞳と彫刻のように高く尖った鼻―真紅の袖無しのワンピースに覆われた華奢な体と甘いコロンの匂いの混じった体臭はカズマの脳髄を刺激した。

「私はシャーロット。ジャーナリストなの。あなたに取材がしたくて」
 カズマは思わず顔を緩めた。
「どこのメディア?」

「ニューヨーク大学の新聞」
 学生ジャーナリストと聞きカズマは少し肩を窄めた。シャーロットはそれに気付くと何とか糸口を探る。
「ここうちの近所なの。随分盛り上がってたから興味持って入ってみたらあなたの作品に惹き込まれてしまったの」

 カズマは疑うようにシャーロットの目を覗き込んだ。彼女は全くその目を逸らさずカズマの細い目の奥を覗き返す。
「もしよければ来週の記事用にちょっと話聞かせてもらえないかなって」

 カズマは頷くと騒々しいギャラリーから外へと彼女を連れ出した。夏の湿気をたっぷり含んだ外気が体にまとわりつく。熱を帯びた黒いアスファルトの歩道を、まるでキャットウォークのように洒落た服装のヒップスターが次々に通り過ぎる。

「みんなマッド•ドッグで騒いでるのになんでオレの絵なんか?」
 カズマはマリファナのジョイントを煙草ケースから取り出すとそれに火をつけ大きく深呼吸し、シャーロットに渡した。シャーロットは一瞬ためらいながらもそれを受け取り一吸いし、カズマの口にそれを戻してから大きく煙を宙に吐いた。

「謙遜しないで。あなたの作品の方が彼のより評判いいと思うわ」
「なんでそんな事がわかる?」
「わからないけど…。ただあなたの画は皆長い時間かけてじっくり見てた」

 悪い気はしない、カズマは少しずつ態度を緩めていく。
「それで、オレから何が聞きたいの?」
「あなたのバックグラウンドをもっと聞かせて。ギャラリーのパンフレットでは『日本生まれ•十七歳で単身渡米』だけ。絵にも説明がない」
「絵の意味なんて見たヤツが決めればいい事だろ」

 シャーロットは子供を諭すように声のトーンを落とす。
「でもあなたの絵のほとんどは日本語で何か書いてあるでしょ?それくらい訳すべきじゃない?フェアじゃないわ」

「わかったよ」
 カズマは最後に大きく一吸いしたジョイントを道路に放り捨て、シャーロットの手をとり混雑したギャラリーの中に入った。パフォーマンスを終えてキュレーターと談笑しているマッド•ドッグを素通りし、奥の部屋にあるカズマの絵の前でシャーロットが立ち止まった。

「これはなにがインスピレーションだったの?」
 カズマは肩を少しすくめ、当ててみて、とジェスチャーをする。
「何かに対する怒りしか感じないわ」
 シャーロットは探るようにカズマを上目遣いに見つめた。

「何に対しての怒りなの?」
「俺にとってアートなんて単に怒りを吐き出す手段だから」
「そしたらずっと怒り続けてなきゃいけないじゃない」
 カズマはそれがどうしたと言わんばかりに肩をすくめる。
「怒りが無くなったらアートをやめりゃいい」
 シャーロットは不満そうに鼻を鳴らし、目を細めた。
「君にだって怒りはあるだろ?どういう風に吐き出してるんだ?」
「本を読んだりとか。愛があれば怒る必要なんて無いわ」
「俺にはそんな穏やかな感覚はないな。人への不信感がありすぎる」

 カズマが自嘲気味に答えると、シャーロットはカズマの屈折した感情と淋しさに満ちた視線から目を逸らし、隣の絵を指差した。
「あれは?」
「英語と日本語の境界線を試したお遊びだよ。記事にするほどの作品じゃない。アルファベットを崩して“Art”。カタカナを崩しても“アート”」

 シャーロットは感心して大袈裟に目を見開くと、湧き出てくる好奇心を隠そうともせずに次の作品に身を乗り出した。
「じゃああそこにあるのは?」
「あれは一つの単語『真実』の二つの漢字を混ぜ合わせて新しい文字を作ったんだ」
「『真実は一つ』って意味?」
 シャーロットが口をはさむ。

「いや『真実なんて誰も分からない』って」
 シャーロットは深く頷くとまるで魔法にかかったような憧憬を浮かべ周りの画を一つ一つじっくり見つめながら歩を進めた。そして一番大きな真っ青なキャンバスに描かれた抽象画の前で立ち止まると、しばらく無言で立ち尽くした。灰色の螺旋が中央に向かって細かいグレイスケールで描かれ、その中心に日本語が書かれている。

「これは?」
 シャーロットの純粋な視線にカズマは耐えきれなかった。
「ちょっと訳せないかな。日本語独特の表現でさ」
「私はあなたを記事にしたいのよ、さっきも言ったけど。それでこの絵の意味を知る事がとても大切だと思うの」

 シャーロットは口を尖らせながらカズマを覗き込む。
「なんで?」
「この絵にあなたのエッセンスがある気がするから」
 確かにその通りだった。シャーロットの決意に満ちた瞳にカズマは覚悟を決め、口を開く。

『救ってほしい。許してほしい。認めてほしい。愛してほしい。』

 シャーロットは表情を変えずに頷くと口元を少しだけ緩めた。先程まで怖いくらい力強かった眼差しは母性を伴う穏やかなものになり、彼女の吐く息の温かさがカズマの奥深くにある空洞にしっとりと浸透していった。それは行き当たりばったりでやり過ごしてきた、味方も理解者もいない一人きりの人生の中で初めての感覚だった。

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