見出し画像

現地コーディネーター:第35話

 エドウィンは自分の体がギリギリ収まるサイズのエアマットレスの上に横たわり、煙突と天井の隙間からわずかに覗く黒い空を眺めた。先程の幻想的な峡谷の景色がまだ鮮烈に脳裏に残って、興奮とも恍惚ともつかぬ状態が続いていた。でもたくさん話したい時こそ言葉が出てこないのは何故だろう。

「もう旅も終わりですね」

 自分の感傷の全てを一行に込めて呟くが、暖炉の向こう側に横になっているカズマからの返事がない。もう寝てしまったのかー最後までマイペースなやつだ、仕方ない自分も寝よう。エドウィンは温い毛布にくるまった。

「なあ、お前この旅に来てよかったと思う?」

 突然カズマの低い声が響く。起きてたならすぐ返事しろよ、と思いつつ、エドウィンはお返しに不要な間をあけてから答えた。

「そうですね、まあ。色々あったけど、良かったです」

 何だか恥ずかしくて大雑把な答えをしてしまったけれど、今までの人生の中で、しかもたかだか二週間でこんなに心を揺らした事は無かった。二十二年の間、自分は時間を随分と無作為に過ごしてきてしまったと思う。

「俺、カズマさんの事分かったつもりになってたけど、実はあんまり知らないですよね。面白いエピソードたくさんありそうなのに」

 残された時間が急に名残惜しくなり、カズマにまた話しかけた。

「断片的に知ってるくらいの方が面白いんだよ、人っつうのは。もう一ヶ月いっしょにいたらごく普通のつまらん人間だと思うよ」
「あんたがごく普通だったら、世の中機能しないでしょ」

 エドウィンが含み笑いと共にそう伝えるとカズマは不満げに声を荒げる。
「なんのエピソードが聞きたいんだよ」
 エドウィンは少し考える。
「ん~。日本にいた頃の学校の話とか」
「俺は昔の記憶を消すのが得意なんだ。全部忘れたよ」

 エドウィンは諦めず続ける。
「んなはずないでしょ。じゃあ酷かった経験なら覚えてるでしょ?例えばニューヨークで一番最悪だったこと。さあ、どーぞ!」

「お前、そんな過去の話ばっか聞いてどうすんだよ。…最悪な事はたくさんあったからどれが一番かなんて言えないし」
 エドウィンがこれ見よがしの大きな舌打ちをすると、カズマもわざとらしい大きなため息をつく。

「最悪の一週間だったら覚えてるわ」

「じゃあそれでいいですよ」

「ニューヨークに来て二年目かなぁ。ボスと喧嘩して引越し屋のバイトをクビになって、貯金残高も三百ドル位になっちゃってさ。ヤケクソで深酒して帰ってる途中に路上で拳銃強盗にあっちゃって。それは何とか切り抜けられたんだけど」
 

 エドウィンは早々にツッコミたくなるのを我慢して耳を傾ける。
「家に帰ったら大家から来月から家賃料を四百ドル上げるって書き置きがあって。それで安い物件を慌てて探してさ…聞いてる?」
「聞いてますよ」

「まぁ何とか物件も見つかって。ブルックリン奥地にあるジャンキーと売人だらけのゲトーだったけど。したら今度は付き合ってた女が急にもう会えないとか言い出してさ。結構マジで惚れてたんだけど。今思えばそんな大したことないんだけどさ。金の切れ目が縁の切れ目って、あれ本当なんだな」

 カズマは大きく咳払いをする。
「それでもうこの世の終わりの気分で引っ越す直前のアパートに帰ったら家が燃えてたって言う。ルームメイトの火の不始末で。パスポートも絵も全部燃えちゃった。ちゃんちゃん。笑えない?」


「笑えないですよ。それでどうしたんですか?」
「どうしたかまでは覚えてないけど、どうにかしたんだろーな」
 自分ならどう対処しただろうとエドウィンは想像してみる。


「でもこの一連の出来事で一番辛かったのはさ、女にふられた事だったんだよな、笑えるだろ?自分と魂まで繋がってるって信じてた女が、どこまでも俺と一緒だと思ってたヤツが、向こうは全くそんなこと思ってなかったっていう。他の事はどうにでもなるんだよ。金とか物とかはさ、取り返せる。でも人の気持ちは取り戻せない」

 エドウィンは意外な最後の一言を頭の中で反芻した。

「結局ただの女好きだってことですか?」
エドウィンは茶化して言う。
「あたりめーじゃん。世の中で一番好きだよ」
 二人は同時に笑うと、カズマは続ける。

「今までずっと一人でサバイバルしてきた気でいたけどさ、周りに人がいなきゃ生きてけないんだろーなって気づいたよ。今更だけど」

 エドウィンは思ったーきっとこの男は感情が強く真っ直ぐすぎるのだ。そしてそれを受け止めきれない相手への思いや愛情への飢えをどうしようもない行動で紛らわせ、空回りをし続けてしまうのだ。

「みんなそうですよ。一人でいれば人恋しいし、誰かといると苦しくなる」
 エドウィンが同意のつもりで声をかけるとすぐにカズマの寝息が聞こえてきた。エドウィンはやれやれと思いつつ自分も目を閉じ、明日には東京にいる自分の姿を想像しようとしたが、独特の砂の匂いが鼻腔を突くのでなかなか実感が湧かなかった。そしてしばらく沈黙に耳を澄ませた。

         *

「準備はできたか?」

 ホーガンの木扉が開くと同時に昼の太陽光が猛烈になだれ込んできた。カズマとエドウィンはほぼ同時に頷いた。

 カズマは薄汚れたボストンバッグを小脇に抱え、エドウィンはバックパックを載せたキャリーケースを引きずり、同時に外に出た。でこぼこに固まった土の道を二十メートルほど歩くと二人は荷物を車のトランクに載せた。エドウィンが運転席に乗り込もうとするウィンドレイザーを止める。

「最後にお願いがあるんですけど」
「おお、なんだい?」

「…運転してもいいですか?」
「なぜ?」
 ウィンドレイザーは怪訝な表情で、申し訳なさそうな顔のエドウィンの顔を覗き込む。

「最後にアメリカを、自分が運転しながら感じたいんです」

 ウィンドレイザーの顔は思わず綻び、エドウィンの肩を撫でて鍵を渡した。エドウィンは鍵を大事に回し、ギアをドライブに入れてアクセルを踏む。凹凸の激しい、道とも呼べない道の振動をその足にしっかり感じながら。窓を半開すると冷たい風と轟音がエドウィンの顔を叩いた。

「さあ、アメリカという国はどうだった?」
 助手席に座ったウィンドレイザーが尋ねる。

「Humongous(巨大です)」

 エドウィンは自分がこの旅で覚えた一番難しい単語を吐き出した。その言葉には懐の深さや抱えている事物の大きさ、それに対する寛容さなども全て含めたつもりだった。

「その通り、巨大だ」
 ウィンドレイザーは笑いながらその大袈裟な単語を繰り返した。

 昨日も通った八九号線を再び真っ直ぐ進む。この広々とした大地に随分と長くいたような錯覚を覚える。恋しいけどまた戻ってくるさーエドウィンには希望というよりも予感に近い感覚があった。アメリカの匂い、肌をなでる乾いた風、誰の指図も受けつけない力強い自然の景色とそこに自分の意志を持って住む人々―次に来るときもそれらは変わらずそこにあるのだろうか?

 一時間もするとフラッグスタッフの空港が見えてくる。一つしかないターミナルの脇に車を止めると、エドウィンはゆっくりとギアをパーキングに入れシートベルトを外した。いよいよ別れの時だ。

「君はいつでもウェルカムだよ。次は両親も一緒に来れるといいな」
 エドウィンは頷いて礼を言う。ウィンドレイザーは緩んだ表情を少し引き締めた。

「これからは自分の心の音を聞くんだよ。君にだけにしか聞こえない音を」

 その言霊はエドウィンの背筋を張らせ、体の末端に拡散していくようだった。背筋に震えを感じたままのエドウィンは驚いた表情でウィンドレイザーを見つめる。彼は何食わぬ顔で笑みを浮かべている。そして次にウィンドレイザーはカズマの肩を抱いた。

「君は自分を罰さないようにすることだな。自分を許すこと」

 カズマは思わず目を反らすが、向き直ってウィンドレイザーの目をしっかりと見つめ大きく頷く。思わず涙がこぼれそうになる。

「じゃあまたね。次は邪魔者なしで一人で来るよ」
 カズマはいつもの軽口を何とか絞り出した。
「ああ、いつでも来なさい。僕はいつもここにいるよ」

 急かすように後続の車のクラクションが鳴る。ウィンドレイザーは車窓から顔を出しその運転手に手を振って合図する。カズマとエドウィンは仕方なしに車外に出てトランクから各々の荷物を取り出した。ウィンドレイザーは助手席から出て運転席に回り込むと、二人の肩をポンとだけ叩き、車に乗り込んですぐに発車した。感傷的になる余地もないくらいにあっさりとしたものだった。

 車が遠ざかっていくのを確認すると二人の若者は黙って空港の中に足を進めた。

「邪魔者で悪かったね」
 エドウィンが皮肉交じりに言うとカズマは素知らぬ顔で航空会社の自動カウンターまでエドウィンを先導し、慣れた手つきでロサンゼルス経由成田行きのチケットと自分のニューヨーク戻りのチケットを印刷した。

 混雑したセキュリティゲートをようやく抜けると、エドウィンのフライト時刻は既に三十分後に迫っていた。

「ここまででいいですよ。ゲートの番号もわかってるし」
「いやいや、最後まで付き合うのが仕事ですから」

 カズマは皮肉っぽく恭しく言うとエドウィンの出発ゲートまで付き添った。ファーストクラスの搭乗が既に始まっているようだ。

「日本に帰ってくる予定は?」
エドウィンがずっと気になっていたことを尋ねる。
「さあ。日本が俺みたいなろくでなしでも受け入れてくれればな」
 カズマはふざけて言う。

「それは難しいかもね。…でも少数ならあんたみたいな人がいてもいいと思うけど」
 エドウィンもふざけて返すとカズマは嬉しそうに目を細め、大げさに笑い、いつもの奇声を上げた。

「じゃあまた…」
「世界のどこかで」
 エドウィンが握手を差し出すとカズマはそれを握らずにエドウィンの肩を力強く抱いた。

「何も学んでねーな。本当の友達はハグするんだって」

 カズマがエドウィンの目をまっすぐ見るとエドウィンは照れ臭そうに頷き、今度は自分から力強くカズマの肩を抱く。カズマはエドウィンの頭を軽く叩いて自分の出発ゲートの方に去っていった。

 振り返る事なく進んでいくカズマの後ろ姿にエドウィンは呟く。
「See you later」

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?