なにものにもなれないぼくたちは

峯田はいつも的を得ている。

傍から見たら、わたしはただの若者である。
何者かに、なりたい。
だが、特に何を担うわけでもなく、責任感など皆無だし、勉強しないし(する!って言ってしないし)、甘ったれた文章を時々書き、親が作った料理を食べ、
「受験ヤダ〜将来生きていけるか不安〜税金払いたくない〜無理無理〜」とほざいてるの
ただの、若者である。

正直なところ、

「何が悪い」

と思っている。

だってさ〜、マスコミとか周りの偉い(偉くない)大人たちに「若者なんてさ〜、なんにでもなれるんだから!」とだけ教わって。
その、肝心の「なんにでもなれる」方法を教えてくれないの。卑怯だろ。何者にもなれなかったからこうやって私たちに説教垂れてるんだろ。こっちが説教だって思ったらそれはもう説教なんだよ〜。分かってよ〜、それぐらい。

そして一行目で書いた
「峯田はいつも的を得ている」という意味
(愛を込めて、敬称略をしています)

彼は立派な大人だ。
音楽でご飯を食べて、ちゃんと税金を収めてるだろうし、レコード会社の人とかと話し合いとかしてんだろうなー。(私のちっぽけな脳みそで想像できる「峯田は大人」の像ね)

けれどいつまでも若者に向けて、若者の気持ちで音楽をかいてるのが、不思議なのです
それがサラリーマンのおじさんとかにも刺さってしまうっていうのが、不思議なのです

それがグッと自分の胸に突き刺さっているし、奥深すぎて抜けないよ

「いちごの唄」の歌詞に
「何者にもなれないぼくたちは」という節がある。これは若者に向けてのメッセージでもあるし、大人になりきれない大人に向けてのメッセージでもある。(進次郎構文)し、完全大人になった人へも向けられているとも思う。

学校で爆音でパンクロックを聴くことしかできないわたし。社会に出ても上手くいかず部屋に引きこもってる、(わたしの)しらない人。世帯を持って、順調そうに見えるけどめっっちゃ妻のこと嫌いな人とか。いっぱいいるでしょう。生きてれば全員、1度は「何者かになりたい!」とこんなあやふやなこと思うでしょう。

※ここでいう「何者」とは「大衆(世間)に求められてる人」を指すよ。

でも何者かになれる人なんてひと握りで、大半の人は道半ばで絶対諦めてしまう。こんなこと思いたくないけどさ、わたしは超現実主義リアリスト(大矛盾)だから。峯田は「何者かになれてる」側の人間で、彼が放った「音楽」という獲物を捕まえて、消費する。脳汁出して骨の髄まで味わうということをする。

その骨にすがり続けることができるなら、
わたしはしなないよ

何回も言うけど峯田は大人なのに
どうして青春の歌を歌うの

ねえ、わたしを何者かにしてくれること
ねえ、みんな(ずっと)大好きだよ

これも大人が読んだら若気の至りだって鼻で笑うんだろうな。ハイハイそうです!若いから!人傷つけなければ!なんでも許される!(はず!)舐めててゴメンなさい!でもそう育てたのは貴方だから。ごめんね

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