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時折、便も漏れております(別居嫁介護日誌 #23)

夫婦揃って認知症であるという事実に、義母は落ち込むどころか喜びを爆発させた。義父ははしゃぐ妻を淡々と眺めていた。その日の午後は、待ちに待った要介護認定の訪問調査(認定調査)の日だった。

当時、わたしは実家通いに疲れ始めていた。夫の実家は都内から約1時間半。飛行機や新幹線を使って通う遠距離介護に比べれば、かかる費用も労力もまるで少ない。「まだ近くて良かったね」と言われることも多かった。ただ、毎週のように通うとなると、言うほど近くもない。

介護体制をすみやかに整えるには、キーパーソンであるわたしが動くのが一番早い。その判断が正しいという確信もあった。でも、油断すると「なんで、わたしだけが」という呪詛の言葉がふわりふわりと、頭の片隅に浮かぶ。そんなヤバい兆しも現れ始めていた。

午前中にもの忘れ外来を受診し、午後に認定調査を入れるというのは、そんな中での苦肉の策だった。どうせ行くなら、ひとつでも多く用事を済ませたい。幸い、当時の義両親はもの忘れこそあったものの、身体的のほうは比較的元気で、午前と午後に予定を入れても、とくに問題はなかった。

それどころか、認定調査に備えて、大掃除をしてしまうほどだった。

もの忘れ外来から実家に戻ると、室内は妙にスッキリ片付いていた。出発時は玄関先までしか迎えに行かなかったので気づかなかったが、親の老いや異変を感じさせる気配が一掃されている。あんなにたくさん貼ってあった「見知らぬ貴女」に宛てた手紙も、一切ないのである。

義両親には「役所の人が来る」とだけ伝えてあった。いっそ、事前に何も伝えずにいたほうがよかったのか。ただ、人によってはあらかじめ言っておかなかったがために、「聞いてない」「帰って下さい!」と大もめしたというような話も聞く。

何が正解だったのか、よくわからずモヤモヤしているうちに、担当の調査員さんが到着。年の頃は50代ぐらいだろうか。テキパキした雰囲気の女性だった。

義母はいそいそとお茶の用意をし、義父はリビングの椅子に悠然と座り、「ようこそ、いらっしゃいました」と挨拶をしていた。こざっぱりとして暮らしている上品な老夫婦にしか見えない。

認定調査のときだけ、普段とは見違えるように応対がしっかりする。それは認知症に限った話ではなく、高齢者全般に見られる傾向だという話はよく耳にしていた。弱みは見せたくないし、できないことも認めたくない。だから、本当はできなくても「できます!」と堂々と宣言するし、認知症でもそうとは悟られないよう、うまくつじつまをあわせるという。

そして、わたしの目の前では、まさに義母がその“認定調査あるある”を実践中だった。名前や生年月日は迷わずスラスラ答える。日にちと時間を聞かれたときは一瞬答えにつまったものの、チラリとデジタル時計を確認し、平然と回答。

薬を飲み忘れないように、日付と時間が大きく表示されるデジタルタイプの置き時計を買ったことが裏目に出る。せめて、しまっておくべきだった! と後悔しても後の祭りである。

季節を聞かれると
「春かしら……夏かしら……、でも、今の時期って季節の変わり目だからなんとも言えない時季ですよね。今日は少し暖かいみたいだけど」
などと答えて、煙に巻く。

調査員さんにはあらかじめ、「ご本人たちは非常にプライドが高く、できないことは言わない可能性が高い」「家族からも話を聞いて欲しい」とお願いしてあった。

だがしかし、義父も義母も驚くほど耳がいいのだ。大声を出さなくても、たいてい聞こえているし、内緒話などした日にはすかさず、「ねえ、何の話?」と質問される。とてもではないが、2階に棲んでる(という設定になっている)女ドロボウや迷子、火のつけっぱなしといった諸々のトラブルを話題にできる雰囲気ではない。

おとうさん、おかあさんが言ってることは事実と違います!
そう伝えたいのは山々だけれど、タイミングも伝え方もわからない。無言の顔芸で「違うんです……!」と訴えるのが関の山という状況がしばらく続いたあと、ふいに調査員さんと義父母の話題が「失禁」に移った。

「こんなことをお聞きするのは本当に失礼かと思うのですが、みなさんにお伺いしているのですみません」

丁寧な前振りのあと、調査員さんは「おトイレがうまくいかなかったり、例えば、タイミングが合わず、間に合わなかったり……というようなことはございますか」と質問を投げかけた。

すると、義父が間髪入れずに「あります!」と力強く回答。毅然とした態度で、尿失禁について語り始めた。

「尿のコントロールがうまくいかず、下着を汚すことがあります。トイレに行こうと思ってから、実際の排尿まで間に合わないことがあるという意味です。ほぼ毎日、何かしらの失敗があります」

義母が「あらやだ、あなたそんな失敗しているの?」と茶化しても、義父は意に介さず、真顔で話を続ける。

「時折、便も漏れております。ただし、こちらは毎日ではありません。腹がゆるいときです。最近は介護ショップで尿パッドを購入し、使っています。もし良いものがあれば、教えていただきたい」

都合が悪いことはすべて“なかったこと”にして平然としている義母と、とにかく真摯に問題解決をはかろうとする義父。

対応は真逆だけど、どっちも強い。昭和一ケタ世代の生き抜く力に、私はただ、ただ圧倒されていた。

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