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スポーツクラブではダメですか(別居嫁介護日誌 #59)

「そろそろスポーツクラブに復帰したいんですが、通い始めてもよろしいですか。まずは先生にご相談を、と思いまして」

義父からそんな発言が飛び出したのは、もの忘れ外来での診察中のことだった。

ギョッとして、思わず義父の顔を二度見してしまう。付き添っていた夫も、目を丸くしていた。義母はオホホホと笑いながら、話を聞いていない。義父だけが真顔で「そろそろ、体調も良くなったので」と医師に詰め寄っている。

「ほう……。スポーツクラブですか。運動がお好きなんですね」

主治医の先生だけが冷静だった。

「今通っているデイでは、少々物足りないですか?」

義父は「そうですね」と力強くうなずく。そして、以前からスポーツクラブに通っていたことを説明し始めた。たしかに、義父は最寄り駅のスポーツクラブのメンバーになっていて、認知症になる前は熱心に通っていた。スポーツクラブから会員向けのダイレクトメールが届いているので、まだ会員資格は抹消されていない。

というか、家族が誰か手続きをしない限り、延々と会費だけが引き落とされているはずだ。義父は2カ所会員になっているので、おそらく月々の引き落とし額は1万円を超える。だが、不用意に「会費の無駄だからスポーツクラブは退会しましょう」などと言って、機嫌を損ねるとのちのち面倒。家計に激しくダメージを与えるほどのムダ遣いでなければ、まあ、いいかと放置し、そのまま忘れてしまっていた。

そういえば、ありましたね。あのスポーツクラブ!

ちょうどその頃、介護体制がひととおり整いつつあった。義父母が、自分たちの認知症をどこまで認識しているのかはわからない。診断されたこと自体をきれいさっぱり忘れている可能性もある。でも、もの忘れ外来の定期受診は毎回楽しみにしている様子だったし、「介護のある暮らし」を受け入れてくれつつあるようにも見えていた。

しかし、義父は今の暮らしに甘んじる気はなかった。「これまでの暮らし」を取り戻すチャンスを虎視眈々と狙っていたことが、この「スポーツクラブ」発言で判明した。

ただ、勝手にスポーツクラブ通いを再開するのではなく、医師にお伺いをたて、筋を通す。その律儀さに救われた。

「今のデイでは、お父さまには物足りないのかもしれません。ケアマネさんに相談して、もっと運動できるデイサービスを探してもらったらどうですか?」
「え? 今のところをやめるってことですか」

義母の顔がパーッと明るくなる。待て待て、デイに通うのをやめるわけじゃないから。

「いや、今のところは通い続けながら、プラスアルファで運動に特化したデイを追加するということです。半日だけ行けるところもありますから」
「なるほど……」

義母はガッカリしたような顔をしながらも、「でも、夫はスポーツクラブに行きたいみたいですけど」と食い下がる。機を見るに敏! そういうところはめちゃくちゃ目ざとい人なんである。

「お父さん、専門の人がしっかり体を見てくれるところがいろいろありますから、ご家族と一緒に見学に行ってみてください」
「わかりました。スポーツクラブではダメですか」
「スポーツクラブでも悪くはないんですが、体のことを考えると、専門のところのほうがいいと思います」
「先生は、専門のところがいいと思っていらっしゃるということですね。わかりました」

すんなり納得したのか、不承不承の納得なのか、義父の表情からは読み取れない。だが、とりあえず、「運動に特化したデイの追加」という路線で着地したらしい。

おさまりがつかないのは義母である。

「結局、デイはやめてもいいんですか?」
「デイはこれまで通り、通います。それ以外に、運動をたくさんできるところに行くんですよ」
「えええ!? そんなことをすると疲れ果てて何もできなくなってしまいます!」
「A子さん(義母の名前)はお休みしていてもいいですよ」
「え? デイをやめてもいいんですか?」
「いえいえ、これまで通っていたところには、引き続き通いますけど、運動をたくさんするところは行かなくてもいいですよ」
「でも、夫が行くのに私が休むというのも……」

“ああ言えば、こう言う”の見本市のような会話だった。医師とのこんにゃく問答は延々と続き、その間、義父はひと言も発することなく、黙って隣で聞いていた。やがて、義母の言葉が途切れると、義父がぽつりと言った。

「先生、ダンスはいつ頃から再開できるでしょうか?」

義父には、社交ダンスという趣味もあったのである。ダンスサークルにも所属し、認知症だと分かる少し前までは、これまた熱心に練習に通っていたらしい。


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