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どうぞマウンティングして下さい。

今日は初対面の人との打ち合わせがあった。だいぶ失礼なマウンティング発言をされたので、怒りが沸点に達し、我を忘れて気づいたら、鼻をフンガフンガさせながら、マウンティング発言で返してしまった。情けない。悔しい。恥ずかしい。

そもそも世の中にはマウンティングが蔓延している。

『夫が商社勤めなんですけど、転勤になったので私も会社辞めて一緒についてきたんです。』 

『へー!桃田さん、○○会社も営業してるんだ?俺も昔その会社とガッツリ仕事してきたんだー、社長とは仲良くて。社長知ってるよね?』

『#コロナ禍デート #グランドハイアット東京』


なぜだろう。マウンティングというのは、見える被害はないし、別に悪口を言われたわけでもないのに、ムカムカ、モンモンさせるじゃないか。
商社の旦那も社長との太パイプもグランドハイアットも、自分が欲しいものではないのに、言われるとムカムカ、モンモンして、そんな自分にゲンナリする、そんなことはないだろうか?
たぶん、それはマウンティングにマンマと引っかかってしまった状態なのだと思う。

マウンティングする理由の多くは、承認欲求からくるものかと考えるが、人間なら多かれ少なかれ誰しも持っている感覚で、きっと自分が気づかないうちに、誰かの上に馬乗りになっていることもあるのかもしれない。

もちろん生きる中で必要なマウントもあると思う。取引き先へのプレゼンの際どこよりも優れている商品であるというアピールするためのマウントとか、自信がない事柄を成し遂げるのに自分を奮い立たせるためのマウントなど、必要なマウントはあるのだと思う。

逆に、旦那が商社マンであったり、社長との太パイプを持っていたり、グランドハイアットを予約できる彼氏がいることは、いらないマウントだ。
こんなマウンティングには『俺って凄いでしょ?神々しく輝く俺を見てくれ!』や、『うちの旦那は商社マン。そんな男を射止めた私には価値があるの。ウォホホホホ。』『グランドハイアットが似合う私を羨ましく感じて!コメントに「羨ましい」と書いてよくてよ』など、大概ほしい答えがあるのだろう。しかし<自分がいかに凄いか>、<自分に関わる人や物も凄くて素晴らしい>とか、<自分は価値がある人間である>とか、会話に全く必要ではないセンテンスなんだけど、言いたがる。あるある言いたがるわけだ。

本日、相手のマウントにマウントで返してしまった未熟な私は、帰路で考えた。
人の幸せというのは、誰より幸せかなんてことは図れない。高価なものに囲まれた人でも幸せな人もいれば不幸な人もいる。お金に日々困っている人でも幸せな人もいれば不幸な人もいる。
すべてはその人の感覚で決まるからだ。

その原理はわかっているつもり。
でもイライラ、モンモンするのはなぜなんだい?それはマウンティングの内容に羨ましくてイライラ、モンモンしているのではない。
マウンティング行為で、私の幸せをその人の物差しで勝手に測り、自分の方が幸せであると証明する行為にイライラ、モンモンしているんだね、私。わかったよ。

はき違えた幸せはいらない。
あの子の幸せはあの子の幸せであって、私の幸せではない。
私は私の幸せを日々の生活の中で見つけて感じて温めていきたい。

だから、どうぞマウンティングしてください。
私の幸せがブレていなかったら、そんなマウントには乗らないはず。未熟な私を卒業するのだよ。きっとできる。自分だけの幸せを探すってそれだけで幸せな匂いするじゃない。マウンティングするよりもきっと楽しくで幸せなことだと思う。

ただマウンティングしている方々に忠告したいのは、どうかマウンティングが癖になって、幸せを履き違えて、自分で自分を疲れさせてしまわないように気を付けてください。


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