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夢と夢

最近、ふと疑問が浮かんできた。
今日は、その疑問についてのお話をしよう。

※ここから出てくる話は、個人の見解であって研究などで得た知識ではないのでご容赦ください。否定的な意見も真摯に受け止めさせていただきます。

まずは本題の前に、その疑問の大きいポイントとなるに日本の美意識や表現について触れておきたい。

引き算の美学として確立した日本の美

引き算の美学。
これは世界的に評価を受けている日本食、神社仏閣や城に代表される日本建築、家具や伝統芸能に至るまで日本のさまざまな文化で表現されている。

西洋の豪華絢爛なとは異なり、無駄を削ぎ落とし、悲しいまでに細部までこだわる。宗教性や、外敵から攻撃されずらい島国だからこそ形成された文化だが、そんな日本文化の中にも実は、異様なほど足し算な文化があるのだ。

日本の足し算の美学

日本に存在する足し算の美学。
それは、言葉。そう、日本語である。

日本語には、現代になり確立された言葉も多数存在するが、一つの事象に対しての表現の仕方が豊富である。一つの漢字でもさまざまな読み方があり、同じ読み方類似した意味でも様々な感じがある。

複雑な日本語。
そんな複雑な日本語の代表例を挙げるとすれば、「生」である。一つの感じでありながら8通りの読み方があり、活用の仕方も含めると12通りの表現の仕方がある。

しかし「生」を使った「生かす」には、「活かす」と言う別の漢字を使ったなんともわかりづらい言葉も存在する。
それでも、この二つの言葉にも明確に定義が存在しており、

生かす: 生命を保たせるなど、生命に関することを表す際に用いる
活かす: 有効に使うなど、能力や特性に関することを表す際に用いる

となっている。こういった表現も日本語の面白いところだと思うのだが、日本語を習得しようとしている方にとってはたまったもんじゃない表現の仕方だ。

日本のオノマトペ
また、言語化できない情景を「サラサラ」や「ふわふわ」などで表した擬音語、オノマトペは、信じられない細かさである。

これも例を挙げるとすると雨が降る音だろうか。
「ざあざあ」「しとしと」「ぽつぽつ」「ぱらぱら」「ばらばら」「しょぼしょぼ」

強さやタイミングなどによって使う擬音が大きく異なる。基本的には個人の感じ方、価値観によって大きく表現は異なるのだがこれもまた日本語の面白くも難しい部分だと思う。(ちなみにこの文の中で使っている強さという表現も「勢い」や「降り方」に言い換えられるのだ)

このように日本人は、可視化されて存在するものからは、様々なものを削ぎ落とし、その美しさや削ぎ落としたものを言葉など様々な手段を使って表現しようと試みてきた。(それでも表現できないものを察してもらう行間という考え方もあるのだが一旦それは置いておく)


夢と夢

ずいぶん長く前談をしてしまったがこれがないとこの本題には、入ることができなかったので許してほしい。

本題は、夢と夢の言葉と表現だ。

なぜ細部にこだわり、引き算と足し算を使い分けて美しさを表現してきた日本人が、夜寝ている時に見る幻覚のことを「夢」と書き、理想の将来像や叶えたい事象のことも「夢」と書かのだろうか。そしてどちらも同じ「ゆめ」といったが読み方なのだろうか。

個人として、当たらずとも遠からずなのは、わかるのだが近くもないこの二つの意味を、同じ漢字同じ読み方で表現した日本人のことを少し残念に思う。

これには日本人の謙虚の心や、歴史的な背景もあるのかもしれないが、幻と思い描く理想を一括りにしてしまう諦めにも等しい表現になってしまった言葉がこんなにも悲しいのかと感じている。

こんなにも素晴らしく、美しい日本語を作り上げてきた先人たちならもっと適切な表現ができたのではないかと悔しさまで感じる。

これが最も適切であるならば、先人たちは夢語りを諦めとして数奇な人生を彩る妄想として使っていたのだろうか。

悲観的な思想を展開してしまったがまとめとして私は、先人たちが夢と夢を混同して同じ漢字同じ読み方で表現した理由は、幻とも思われる幻覚も理想も、叶えるために弛まぬ努力し続けることが大事なのだと考えたと信じる。

そう。
努力の「努」の読み方は「ゆめ」なのだ。

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