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『たった一人のリアリティ、きみに捧げるディテール』 その壱

「まさかそれゆえに」

            ある脚本家をめぐる物語     


Locations 

            ベトナム中北部及び海南島              


Characters

           ・ライター 奥野広実 (24)

           ・通訳兼コーディネーター ティック (30)

           ・禿頭の男 リー (46)

           ・難民子女 チャム・コク・ラン (25)

           ・ウェイトレス フィー (19)

           ・中越貿易の頭領 グエン (57)



○  ハ・ロン湾(夜明け)

    未明の湾を、数人の男女が乗った一艘の小舟が進んでいく。

    東の空が白みかけたころ “海の桂林”といわれる、いくつもの奇岩が
    海面にそびえたつ景色が現れ、複雑な水路が見えてくる。

 男の声  「あわてなくていい(ベトナム語)」
    と、静かに前方を指さす舳先の人影。

    島の一つに回り込んだ小舟はそのまま鍾乳洞の中へ入っていく。

    やがて暗い水面の向こうで、ほのかにうごめく人形たち。

○  鍾乳洞の中

    仮面をした男が小舟から降り、人形と舞いを踊るように戯れる。            

    本来はベトナムの水上人形劇だが、どこか秘儀めいた趣。

    操り手たちが現れ、小舟から降りてきた全員と肩を叩き合う。

○  ゲストハウス・バルコニー

    ハノイ旧市街にある最上階のバルコニーで、体をだらしなくデッキ
    チェアに預け、寝返りをうつ奥野広実。

    背後には青い空と、昼前のホアン・キエム湖畔の、昔の面影を残す
    にぎやかな雑踏。

○  タイトル

    空がゆっくりと溶暗していき、浮かび上がるタイトル『まさかそれ 
    ゆえに』

○  鍾乳洞の中

    岩の上に横たえられた人形の数々。一陣の風にふと動く。

○  ハノイ市内・郊外

    ビルの一角から通訳のティックが走り出てきて、小型バイクにまた
    がる。

○  同・幹線道路

    風を切り精いっぱい走るティック。やがてハン川の鉄橋をこえる。

○  同・旧市街

    渋滞と人込みのためバイクを乗り捨て、市場の中を駆け抜けるティ
    ック。

○  ゲストハウス・玄関

    1階のカフェ脇を通り過ぎようとしたとき、馴染みのウェイトレス 
    が声をかける。

 フィー  「ティック、約束のやつができたわよ(ベトナム語)」

    前のめりの体勢で一瞬きょとんとするティック。

 フィー  「そういえば広実さん、このごろ元気ないね」

 ティック 「……ああ、あとで寄ろう」
    と、あわただしく玄関の奥へ消える。

    肩をすぼめるフィー。

○  森の中(広実の夢)

    窪地に掘られた穴に土がかけられる。

    底のほうに突き出た人間の手。

    徐々に土で覆われ、完全に埋め戻される。

    と、岩陰から現れた僧衣の男が空を指さす。

    どこからか自分の名を呼ぶ声、そして耳鳴り。

○  ゲストハウス・バルコニー

 ティック 「……広実さん、広実さん」

    はっと目覚める奥野広実。額の汗をぬぐい、偏頭痛のなごりに顔を 
    しかめる。

 ティック 「大丈夫ですか」

 奥野広実 「(時間を確かめるように空を見上げ)どうしたの」

 ティック 「いい知らせなんです」

 奥野広実 「(苦笑しながら)適当にやってるから、無理しなくて平気」

 ティック 「チャム・コクランの行方、やっと光が見えてきました。彼女
       がボランティアしていたときの中国系の患者、昨年亡くなっ
       てますけど、その娘さんが妙なことを思い出したらしく」

    横目でいぶかるように体を起こす奥野広実。

 ティック 「患者が亡くなる直前、中国の海南島で人に知られず安くアパ
       ートを借りるにはどうしたらいいか、いろいろ訊いていたそ
       うです」

 奥野広実 「海南島?」

 ティック 「ブローカーや不動産屋をいくつか紹介したとのことで」

 奥野広実 「チャムはそこにいるというの?」

 ティック 「そうと決まったわけじゃありませんが、あそこにはベトナム
       を出ていった華僑がたくさんいますからね。地図上はトンキ
       ン湾をはさんですぐ先ですけど、正規ルートは中国との国境
       を大陸へ抜け、海を渡るしかありません。ひそかに住み処を
       探すのはきっと深い理由があるんだと思います」

 奥野広実 「彼女は華僑じゃないし、別に後ろめたいことなんかないはず 
       でしょ」

 ティック 「何かに巻き込まれた可能性もあります。本人にその気がなく 
       ても、連絡がつかなくなることはいくらでもあります」

 奥野広実 「また迷宮か……」

 ティック 「大きな手がかりじゃないですか。チャム・コクランはきっ
       と、だれかを助けようと思って動いたんだと思いますよ」

 奥野広実 「……」

 ティック 「どうしますか?」

 奥野広実 「……もちろん行ってみる。その前に、もっと調べなきゃ」
    と、パレオを腰に巻いて部屋の中へ戻る。

○  旧市街のマーケット

    縦横に走る小道にシクロや物売りがひしめき、衣料品、漢方薬、食
    料品、仏具、雑貨、麻製品など特産品の店が立ち並ぶ。

    そこに伝統的な仮面を売る、わりと静かな佇まいの店。

    お辞儀をする主人。

    朗々と述べられる口上。

    うごめく仮面。

○  ゲストハウス・リビング

    冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注ぎ足す奥野
    広実。

    ティックはボトルを手に、机の上のノートや地図や写真、そして鎮
    痛薬や手紙の束を見やっている。

 ティック 「ハノイの街中、彼女について訊きまわってるうち、すっかり
       惹き込まれてしまったようです。チャムはたぶん、あなたと
       似てるんでしょうね。ベトナム人とはいえ、たとえ難民の子
       であっても、小さいときからずっと日本に住んで大学まで出
       てるわけですから、考え方やどう行動するかは私たちよりも   
       広実さんのほうが近いのかもしれない」

 奥野広実 「私たちは、子供のころどっちもいじめられっ子で、活動的な
       タイプとはとてもいえなかったけど、大学を出てからのこと
       はお互い想像もしてなかったと思う。私はたまたま暇つぶし
       に書いたシナリオが当選してしまい、彼女はボランティアの
       ままベトナムに居ついちゃったわけだから」

 ティック 「ベトナム人とか日本人じゃなく、もう一人のあなたがいると
       思うとなんとなくわかるような気がする。広実さんだって日
       本の知り合いからみたら、突然いなくなったまま連絡が取れ
       なくなっているんじゃないですか」

 奥野広実 「私は、……逃げも隠れもしてない」

 ティック 「チャム自身もそう思ってるに違いない」

 奥野広実 「……そうね。やっぱり予定を変更して、明日のうちに出発し
       ましょう」

 ティック 「(にっこり笑って)そうくると思いました」

 奥野広実 「ティックのほうが熱心みたい」

 ティック 「今夜はフィーといっしょに食事しましょう。あとで彼女がア
       オザイの試着に連れてってくれますよ」

○  海南島・天涯ビーチ(夕方)

    海と空が溶け合うような水平線に夕陽が落ちていく。

    かつての流刑者たちの嘆きが刻まれた波打ち際の奇岩。

    何艘かの小舟がそこへ近づき、隙間に紙幣を押し込む。

    宙に舞った二元札の裏にはこの海岸が描かれている。

○  部屋の中(広実の夢)

    ベッドの上で大きな熊の縫いぐるみと向き合う少女。

    じっと見つめたあと、その目や耳や鼻をむしりとろうとする。

    やがて胴体を切り開き、中の素材をえぐりだす。

    姿見の前で大きな熊の着ぐるみと化した少女。

○  レストランバー・トイレ内

    民族的な装飾が施されたトイレで鏡に向き合う広実。

    アオザイのほつれを直し、ふと洗面台の万華鏡を手にとる。

    鏡に向かってそれを覗く。

○  万華鏡

    懐かしさを覚えそうな色とりどりの世界。

    不意にそれが幾千もの仮面のように見える。

○  レストランバー・店内

    まばらな客。

    トイレから出てきた広実がテーブルへ向かう。

    カクテルを飲むフィーが待ちかねたように顔を輝かす。

    その隣りには酔いつぶれたティック。

 フィー  「広実さん、長いよ(ベトナム語)」

 奥野広実 「(冗談っぽく)ちょっとトリップしてきちゃった」

 フィー  「変なもの見なかった? ハノイのトイレには秘密があるん
       だ。ベトナム戦争のとき、私たちの軍隊が国中に張り巡らし
       た地下トンネルを利用して大攻勢に出たので、頭にきたアメ
       リカ軍がそこへ侵入して反撃しようとしたの。でも間違えて
       下水道に入ってしまい、それに気づかずどんどん進軍し、や
       がて汚物にまみれて全滅しちゃったらしいわ。だからトイレ
       は今でも、下水道に閉じ込められたアメリカ兵の幽霊がとき
       どき出るって。……子どものころ、ハノイにある親戚の家の
       トイレで西洋人のお化けを見たって話したら、おばあちゃん
       も同じ経験があると言って教えてくれたんだ」

 奥野広実 「すごい秘密」

 フィー  「でもこれは、女性トイレだけの話だって」

 奥野広実 「幽霊になっても、アメリカ人は女好きっていうこと?」

 フィー  「それもそうだし、男には行く末が見えないのよ」

 奥野広実 「だらしないのね」

    そのとき、テーブルに伏せていたティックがもぞもぞと動く。

    顔を合わせ、吹き出す二人。

○  同・店の前(夜)

    両脇を支え、酔ったティックをタクシーに乗せる広実とフィー。

    通行人の口笛にうつろに目を開け、腕を上げようとするティック。

    それをさえぎり、座席に押し込んで路上で笑いあう二人。

 フィー  「これだからね、男は(ベトナム語)」

 奥野広実 「風にあたって帰りましょう」

○  ハノイ市内・チャン・ティエン通り(夜)

    高級ホテルが立ち並ぶメインストリートを、広実とフィーが陽気に
    歩く。

○  同・ホアン・キエム湖畔(夜)

    散策するアベックを尻目に、腕を組んだり肩を抱いたりしてはしゃ
    ぐ二人。

○  同・プリクラ(夜)

    街角のプリクラを見つけ、頬を寄せポーズをとる広実とフィー。

    ふとまじめな顔となって、互いの胸に手をやり、唇を重ねる。

    露出オーバーの写真。

    おぼろげな広実の眼差しが次のシーンへだぶっていく。

○  フェリー・船内

    近づく海南島を船内の窓からじっと眺めるチャム・コクラン。

    何隻かの漁船を追い越していく。

    チャムの横に眠る老婆。

    さらに横で目を瞑る初老の男。

○  朽ちた船着場

    密集し、水没したまま放置された船の残骸。

    ところどころに記されたベトナム語。

○  フェリー・船内

    近づく海南島を船内の窓からじっと眺める奥野広実。

    ヤシの木の並ぶ坂道やヨットハーバーが見えてくる。

    同じ窓に顔を寄せるティック。

 ティック 「……ずいぶん近代的ですね」

    ちらっと振り返る広実。

 ティック 「遊びにきたのでないことはわかってます。中国はこの島を東
       洋のハワイとか第二の香港といって売り出し中ですが、ずっ
       と昔は流刑地、ベトナム人にとっては目の上のたんこぶで
       す。難民の流出という不幸な時代があったから、私たちの心
       はなおさら複雑に屈折しています。チャムがここへきた理由
       はわかりませんが、きっとそうした感情とは無縁でしょう。
       だから私も彼女に会ってみたい、会って話を聞いてみたいん
       です。忌まわしい過去や政府の政策より、私にとって大切な
       可能性があるように感じるんです」

 奥野広実 「ティックはあらたまると、いつも格式ばるわ」

 ティック 「(渋面を浮かべながら)悪い癖ですね」

 奥野広実 「気にしないで」
    と、笑みを返す

 ティック 「チャムに会えるという保証はまだありませんが、数人のベト
       ナム系中国人にあたりをつけてますから、必ず何らかの展開
       があるはずです。あ、この言い方も」

 奥野広実 「……私、何をしているんだろうと思う。もしチャムと会った
       ら、そのあと何を話せばいいんだろう。無事を確認し、会え
       たことを喜んだとしても、それで終わり。彼女がここに自分
       の意志でいるとしたら、追いかけるのは私のセンチメンタル
       な都合であって、はた迷惑な存在にすぎなくなる。ティック
       のことをとやかく言う資格なんて全然ない」

 ティック 「広実さんは大胆なのに、すぐ反省したがる。……さあ、上陸
       しましょう」

○  自転車置き場(広実の夢)

    ミニサイクルに乗ったセーラー服姿の少女がやってくる。

    ぎっしり並んだ自転車の列。

    駐輪しようとして、隣りの自転車を倒してしまい、そのまた隣りも
    倒れかかる。

    あわててそれを元に戻す少女。

    そしてもう一度力強く押し、将棋倒しとなるのを見届ける。

○  海南島・風動石

    山の頂きにある、風に揺れるという伝説の巨岩。

    近くの岩肌に寝そべり、それをじっと眺める禿頭の男。

    眼下には光と波がきらめく月亮湾の眺望。

    やおら腕を上げ、青い空になにやら文字を書く。

○  海口市内・市場

    あらゆる食材が並ぶ一角で行われる豚の解体。

    頭が切り落とされ、血が吹き上げ、肉が裂かれ、腸が飛び出す。

○  ブローカーの事務所

    通りに面した窓からその光景を見ている奥野広実。

    背後では、薄汚い机をはさんでブローカーと言い合うティック。

    その怒鳴り声に振り向く広実。

    また耳鳴りに襲われ、数歩よろめく。

 ティック 「大丈夫ですか」
    と、驚いた声でかけよる。

 奥野広実 「ええ」
    と、うつろに顔を上げる。

    ティックの肩越しにある、もう一つの窓から広場が見える。

    一人の男が天を指さしている。

    床にへたりこんで失神する広実。

○  同・ソファの上

    横たえられたまま目を覚ます奥野広実。

    傍らに付き添うティック。

    はっと体を起こし、窓のほうを見やる広実。

 ティック 「どうしたんですか」

○  窓の向こう

    昼下がりの広場。

    ごく普通の風景。

○  ブローカーの事務所

    突き動かされたように部屋を飛び出す広実。

 ティック 「待って!」
    と、その後を追いかける。

    ブローカーは呆気にとられた様子。

○  海口広場

    奥野広実が走ってきて空を見上げる。

    なんの変哲もないどんよりとした空。

    と、足下に散らばるいくつかの紙片。

    それを拾い上げ、じっと見入る広実。

 ティック 「芝居のチラシのようです」

    振り向いて、その顔を見る広実。

    同じ紙片を手に、翻訳して読み上げるティック。

 ティック 「リー一座の『海に浮かぶ月』 今夜9時、第三埠頭にて開
       園」

○  公園の駐車場(広実の夢)

    にわか雨が降りだし、走って車へ戻ってくる広実。

    自然公園の木々が揺れる。

    ドアを閉めて一息つく。

    と、空から降りそそぐ血の雨。

    車の中で泣く広実。どしゃ降りの血。

○  第三ターミナル(夕方から未明まで)

    薄闇の中に煌々と輝く静かな建物。

    その向こうに見える第三埠頭。

    コマ撮りされて夜を一気に駆け抜ける。

    揺れる光と影。変転する背景。

○  同・待合室(未明)

    壁時計の針が午前4時を過ぎようとしている。

    窓枠に腕を乗せ、第三埠頭を見渡す奥野広実。

    一匹の蛾がガラスにぶつかってうろうろする。

    ティックはベンチに座り、うとうとしている。

○  バスの中(広実の夢)

    後部席に並んで座る広実とチャム。

    若い男が、ミミズ腫れだらけのチャムの左手に目をやる。

    気づいた広実は、彼女と腕を組み、手を握り締め、体を寄せる。

○  第三埠頭

    未明の海を何艘かの小舟が埠頭に向けてやってくる。

    進みは遅く、ゆっくりと空が白みはじめる。

    やっと接岸したと思われたとき、舟の姿が消える。

    と、埠頭の上に立ち現れる人形たち。

    そして這うように動く黒子の操り手。

    はるか遠くから聞こえてくる海鳴り。

    あたかも人身御供がテーマのような劇が演じられる。

    一つだけ妙にリアルで異質な人形が海の神々に捧げられる。

    朝の陽光が一帯を照らしつけたとき、幻のように溶けて消える。

○  ターミナルの外

    目を見開き、呆然と立ち尽くす奥野広実。

    やがて朝陽のなかを埠頭まで駆けていく。

○  ホテルのロビー

    コーヒーを飲みながら広実がノートになにやら描いている。

    そこへ急いた様子のティックが戻ってくる。

 ティック 「だめです。だれも知らないみたいです。あのビラを見せて
       も、リー一座という団体はおろか、昨夜その公演があったこ
       とすら知りません。フロントの人によると、人形劇なら中国
       系ベトナム人かもしれないと言ってますが、その程度なら私
       にだって推測できます。でも……」

 奥野広実 「何?」

 ティック 「本当に見たんですかね。明け方、そんな人形劇があったなん
       て、この私でさえ半信半疑なんです。嘘っぱちのビラのせい
       でさんざん待たされたものだから、幻を見たという可能性は
       考えられませんか。一晩ずっと海を眺めていたら目も体も疲
       れちゃいますし、何かを期待する広実さんの気持ちが作用し
       たのかもしれません」

 奥野広実 「だから何度も言ったでしょ。私はベトナムにいたときだって
       水上人形劇は見てないの。船に乗って人形がやってくるなん
       て、どうしたら想像つくのよ。ティックが見てないのは、寝
       てしまったからでしょ」
    とノートを差し向け、埠頭での模様を描いた拙い絵を見せる。

 ティック 「だから申し訳なく思ってます。(小さい声で)起こしてくれ
       てもよかったのに……。島の南東部に、ベトナムからやって
       きた難民たちの部落があるそうなので、午後そちらへ行って
       みましょう」

 奥野広実 「だれか、リー一座のことを知ってるかもしれないわ」

 ティック 「ええ。それも訊いてみましょう」
    と、もう一度ノートに目をやる。

    そしていきなり笑い声を上げる。

 奥野広実 「どうしたのよ」

 ティック 「広実さん、(ノートを指さしながら)埠頭の沖合にはこんな
       岩ありませんよ。あったらたいへんです」
    と、勝ち誇ったような笑顔。

    ノートを引き寄せ、絶句したように見つめる広実。

○  高速バス・車内

    海口から万寧へ向かう長距離バス。

    窓に映る海岸線を、ノートを抱えたまま見つめる広実。

    隣りの座席でティックは眠りこけている。

○  ある建物の中(広実の夢)

    寝室のベッドにだれかが寝ている。

    ドアを開けて部屋を飛び出し、廊下を進んで右へまわり、さらに進
    んで左へまわり、突き当たりの扉を開けた途端、それが同じ寝室の
    同じドアだとわかる。

    もう一度同じ行動をとる奥野広実。

    また同じ寝室へと戻るが、ベッドにはだれもいない。

○  ベトナム人部落

    海と山が迫る郊外にバラックが密集する。

    通りを、タクシーに乗った広実とティックがゆっくり進んでいく。

    中国人の運転手が途中、道を尋ねる。

    やがて崖沿いの、みすぼらしい寺のような場所へやってくる。

    車を降り、周囲を見まわす二人。

○  寺の中

    部屋のあちこちに胡椒の実が飾られ、岩をくりぬいた仏壇に像が祭
    られてある。

    アオザイを着た少女が広実とティックにお茶を入れる。

    テーブルに置かれた写真やノートを見やり、胡椒をつめたキセルを
    吹かしながら、Tシャツ姿の老人がベトナム語で語りかける。

 老人   「わしらはもう長いこと胡椒畑で働いておる。ベトナムを離れ
       た同胞は何百万人もいるだろうが、ほとんどが海の藻くずと
       なり、生き残ったのはごく僅かだ。ここにいる連中はみな、
       まじめすぎるぐらいまじめで、子どもの中には北京で共産党
       幹部になった者もいる。その代わり悪い者はとびきりの悪党
       となり、上海で下手人となりはてたやつがいる。日本やアメ
       リカへ渡りたがる人間が多いのは、みな頃合いを知らず、限
       りない幻想をもたねば安心できないと知っているからだ。そ
       れが幸福の始まりであり、不幸の素である。チャムという女
       性はおそらく海南島にはおるまい。いたとしてもきっとベト
       ナムに帰るだろう。リー一座なる集団はもっと厄介だ。アメ
       リカかぶれに違いなく、奇怪な力をもっているかもしれな
       い。三亜にある中越貿易の頭領を紹介してやろう。わしらは
       お互い助けを必要としておる。ありがたいことに、行き過ぎ
       を知っているのだ」
    と、キセルを一服させる。

○  寺の外(夕方)

    玄関を飛び出してくる広実。

    まもなくしてティックが続く。

    待たせておいたタクシーをはさみ、声を出す。

 奥野広実 「どう見ても普通じゃないわ」

 ティック 「それなりに収穫はありました」

 奥野広実 「三亜に行くの?」
    と、車のドアを開ける。

 ティック 「今夜は宿へ帰りましょう。全然寝てなくてそんなに元気なん
       て、広実さんこそ普通じゃない」

 奥野広実 「そうね。汗を流したいし、お腹がすいちゃった」

    タクシーに乗り込む二人。

○  五指山(夕方)

    山を降りてくる旅芸人らしき一座。

    禿頭の男を先頭に、大きな荷を背負って黙々と歩く。

    少数民族の集落を過ぎるころ、付近の子どもたちが無邪気にまつわ
    りつく。

    歩をゆるめず進んでいくうち、子どもたちは自然と離れていく。

○  海鮮レストラン

    客で混み合う店内。

    慌しい厨房と具材の数々。

    次々と各テーブルに運ばれる料理。

    食後の席はたちまち片づけられていく。

○  温泉賓館

    屋内にある、いかにも南国風の岩風呂につかる奥野広実。

    入浴客はほかにだれもいない様子。

    疲れがほぐれてうつらうつらとなる。

    と、岩陰から湯に浮かんだ何体もの人形が現れる。

    徐々に中央までくると、一斉に天井を指さす。

    そこには森の中で地面を掘る男の姿が俯瞰となって映る。

    仰ぎ、目を凝らす広実。

 奥野広実 「そこじゃない!」
    と、思わず口走る。

○  高速道路

    三亜へ向かって走る長距離バス。

    道路脇に亜龍湾ビーチリゾートを描いた大きな観光看板。

○  三亜港

    強い陽射しに照らされ、数隻の貨物船が停泊する。

    その一つで荷積みが行われ、沖仲仕が立ち働く。

○  インターチェンジ付近

    渋滞する車の列。

    ゲートの向こうで明滅する複数の赤色灯。

○  同・バス車内

    遅々たる動きの車列。

    広実の体を乗り越え、窓に顔を寄せるティック。

ティック 「事故ですか」

奥野広実 「つかまっちゃったみたいね」

○  事故現場

    車線をふさぐトラックとワゴン車。

    ワゴン車の運転席がつぶれ、中に人が閉じ込められている様子。

    救急隊員が途方にくれている。

○  同・バス車内

    その横を通り過ぎるのを窓から眺める二人。

    と、救急隊員の女性がにっこり微笑む。

    そして南の空を指さす。

 奥野広実 「あ、教えてくれてる」

 ティック 「え」

 奥野広実 「降りましょう」
    と、荷物をもって運転席へ駆け寄る。

 ティック 「広実さん!」
    と、その後を追う。

○  救急車・車内

    サイレンを鳴らして走る車内で、救急隊員とともに座る二人。

    タンカに横となった中年男が体を起こし、煙草に火をつける。

 グエン  「ようこそ最果ての国へ。中越貿易のグエンだ(ベトナム
       語)」

 奥野広実 「どこへ行こうというの」

 グエン  「船だよ」

 ティック 「どうするつもりなんだ」

 グエン  「海へ行く」

 奥野広実 「チャムに会えるのね」

 グエン  「捜しているのは、それじゃないだろ」

 ティック 「どういう意味だ」

 グエン  「知っているはずだがな」

○  三亜市内

    ヤシの木が並ぶ観光地を走り抜ける救急車。

○  三亜港

    貨物船に横づけされた救急車。

    背後の扉を開け、広実とティックが慎重に降りてくる。

    貨物船を見上げる二人。

○  南山海岸

    海と山が連なる一帯に仏教関連の旧跡が集まる。

    南山寺の正面を横切る旅芸人らしき一座。

    やがて奇観の岩々を抜け、はしけから漁船に乗り込む。

    沖合いに、高さ百メートル以上ある海上観音像が屹立している。

○  貨物船

    船尾に立つ広実とティック。

    小さくなる海南島に背を向け、南シナ海へ目をやる。

    と、船員が手招きする。

○  同・余暇室

    扉が開き、ミネラルウォーターを手にひと気のない空間へ連れてこ
    られる二人。

    低く唸るようなモーター音がするなか、ビデオスクリーン、ジム器
    具、カラオケセットなどが所狭しと置いてある。

 グエン  「ようこそボーダレス・ワールドへ(ベトナム語)」
    と、車椅子式の電動マッサージ機に横たわったまま、二人のほうへ
    向きを回転させる。

    音の発生源らしく、気持ちよさそうに体をねじる。

 ティック 「(ボトルから口を離し)もったいぶったやつだ」

 グエン  「……これがわからないとは、つくづくまぬけなやつだな。私
       は貿易を生業としており数多くの商品を扱う。他人が生産し
       たものをひょいと動かし儲けるわけだから、人様には尊ばれ
       ないようだが、オリジナル商品というやつも開発しておる。
       たとえば、こんな具合だ」
    と、正面の壁を示す。

    カーテンの中から女性が四人、ビキニ姿で現れる。

 グエン  「紹介しよう。左から韓国人のS、フィリピン人のH、インド
       ネシア人のI、タイ人のT、ダンスのみならずアジア歌謡の
       新勢力となるだろう」

    伴奏に合わせ、くねくねと体をよじらせる四人。

    たちまちカーテンの奥に消える。

 グエン  「つまり、貿易というのは物だけではない。人間や情報を扱う
       コミュニケーション・ビジネスでもある」

 ティック 「それをブローカーというのさ」

 グエン  「わかってないな。貿易というのは国境を越える仕事なんだ」

 奥野広実 「もういいわ。船に乗る前、私たちの望んでいることがわかっ
       ているみたいな言い方をしたわね。これからどうなるのか、
       もっとちゃんと教えて」

 グエン  「だから国境を越えるのを待て。あと数時間の辛抱だ」
    と、車椅子式の電動マッサージ機ごと奥の部屋へ消える。

○  トンキン湾・海上(黄昏)

    貨物船の横に漁船がつき、二体の布袋が降ろされる。

○  ハ・ロン湾・沖合い(深夜)

    漁船から何艘かの小舟に人が乗り移り、最後に二体の布袋が渡され
    る。

○  病院(広実の夢)

    MRIによって頭部の診断を受ける奥野広実。

    異次元へのトンネルに入るような装置。

    脳のいくつかの断面画像がフラッシュバック。

    と、腫瘍のような丸い影が指さされる。

○  ハ・ロン湾(夜明け)

    未明の湾を、旅芸人らしき一座の乗った三艘の小舟が進んでいく。

    空が白みかけたころ、海面に現れた奇岩の間を抜け、鍾乳洞の入口
    へやってくる。

 禿頭の男 「あわてなくていい(ベトナム語)」
    と先頭の艫であぐらを組み、静かに前方を指さす。

    男の前で、二体の布袋から顔を出した広実とティックは黙りこくっ
    たまま。

○  鍾乳洞の中

    奥までいくと、輝く灯りのなか岩盤の上に人形が整然と据えられて
    いる。

    そして操り手たちが、硬そうな地面をシャベルで深く掘っている。

 禿頭の男 「そこだ」
    と、船から降りて穴の中に入る。

    やがて両手で、球形の物体をつかんで出てくる。

 奥野広実 「あ!」

 ティック 「なんですか?」

 奥野広実 「……タイムカプセル、小学校を卒業したときの」

 禿頭の男 「チャムとおまえの、未来に向けた手紙が入っている」

 ティック 「な、なんで、ここに」

    しかし広実は、さめざめと涙を流している。

<終>


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