見出し画像

能登半島地震で被災しました。(前編)

本来ならNFTのお迎え報告を投稿するはずですが、
先にこちらの体験を投稿したいと思いました。

令和6年能登半島地震にて能登で被災し、自宅のある金沢まで帰ってきた体験を綴ります。

地震の当日、私は実父の実家である石川県輪島市門前町に年始の挨拶に家族と訪れていました。

その時、私と旦那、長女(小六)長男(小二)、父は自宅に。
母と弟は元旦だけど、どうしてもと近くの畑に行っていました。

最初にきた揺れは大きかったですが、家具等倒れることもなかったです。
また珠洲市の地震かな?とテレビの情報を確認しつつ、
側にいた長男が怖くて泣いているのをなだめていました。

その直後、けたたましい携帯の警告音と一緒に再度激しい揺れが。
咄嗟に長男を抱き抱えて机の下へ。
すぐにこの揺れはやばいと感じました。
食器やテレビがガンガンと音を立てて落ちてきます。
私は長男を抱き抱えながら、机の足に必死にしがみつきました。
しがみつかないと、机から吹き飛ばされそうなくらいの揺れ。
足元に割れたコップが転がってくるのが見えます。

強い揺れはとても長く感じました。一分くらいでしょうか。
揺れが少しおさまった時に、旦那が「大丈夫か!?」と隣の部屋から声をかけてくれました。
旦那は長女と机の下に逃げ込んで無事でした。
私も「大丈夫!〇〇(長男)も大丈夫!そっちは!?」と声をかけ合いました。
揺れがおさまって見回すと部屋はめちゃくちゃです。
部屋の間の戸も倒れ、ガラスの破片や食器の破片が床に散乱しています。

私と長男は台所にいたのですが、冷蔵庫と食器棚は地震対策の突っ張り棒を付けてあったので、傾いただけで倒れてこなかったのが幸いでした。
17年前、門前町の大地震で家が半壊した経験があり、母がとり付けておいてくれたのです。

旦那が玄関から皆んなの靴を持ってきてくれました。
それを履いて、手荷物と上着をとっさに持って急いで外に出ました。
足の悪い父はその時トイレに入っていたようで、怪我もなく一緒に外に出ました。

外に出ると、お向かいの家の納屋が潰れていました。
道路はひび割れ、盛り上がっています。
少し離れた隣の家は一階が潰れていました。

(え?こんなにひどかったの?)
言葉になりませんでした。
自分の体が怪我一つないのが不思議に感じました。
17年前に起きた門前町大地震の時の事が蘇ります。


玄関の戸は全部はずれて倒れていました。


納屋が潰れています。


1階が潰れたお隣の家


とりあえず、何か倒れてくる心配がないよう、近くにある広い駐車場に移動。
外にいて無事だった母と弟、家から出てきた近所の人達も集まって来て、お互いの安否確認をしていました。
お隣の潰れた家の方は家具の隙間に入っていて無事だったらしく、
なんとか這い出てきたそうで、全員無事だという話を聞いてホッとしました。
遠くで、誰かが潰れた家の1階に閉じ込められているという話が聞こえて来ました。でも何もできません。
駐車場にしばらく立ち尽くしていましたが、余震が来るたびに子供達が怖がっているので「もう大丈夫だよ」となだめて離れないようにしていました。
近所のお兄さんが皆にマスクを配ってくれました。


写真はその時に撮りました。
とりあえず無事であることを写真を添えてXにアップしました。

上着は着ていますが、外は寒いし、日没も迫って来ました。
薄暗くなってきたその時に、公民館に避難所を開設するとの放送が流れて来ました。
とりあえず車で避難所へ行こうという話になりました。
父と母の携帯・貴重品・薬を母と一緒に携帯のライトで部屋を照らしながら急いで持ち出しました。
弟の車に両親を任せ、私たち家族も車で避難所へ向いました。

避難所に行く間の道はひび割れや段差が出来ていて、車が通れるか不安でしたが、車の底を少し擦るのを覚悟で道路をゆっくり走りました。

もう辺りは日没して真っ暗でした。
避難所になる公民館のある總持寺商店街の手前の駐車場まで来ました。
商店街の通りを見ると、瓦礫が散乱しています。
公民館は商店街の通りの先にありますが、これ以上車で行くのは危なそうでした。

両親と弟の居場所を確認するために携帯で電話をかけますが、あちらの声が聞こえても私の声が届かず。何度掛け直してもだめです。

地震直後は繋がっていた携帯ですが、回線が混んでつながりにくい状況になっていました。LINEを送ろうとしても送信ができません。(私の携帯はdocomo。大手携帯会社は軒並み繋がりにくくなったようです)
旦那の携帯を借りて母にかけた所、つながりました。
(旦那の携帯は楽天。使っている人が少ないせいか、繋がりやすかったです)

両親と弟はすでに公民館に着いていました。
車で公民館まで行けそうになかったので、一人で商店街を歩いて公民館に向かいました。
暗闇の中、携帯のライトで足元を照らして歩きましたが、1階が潰れているお店、電信柱が倒れかかって電線が垂れ下がっている、あちこちに瓦礫が散乱している、道もひび割れと、とても危険な状態でした。

公民館で母と弟に会えました。
父は足が悪いので、奥の部屋にこもっていました。
私たち家族はとりあえず一晩車の中で過ごすことを伝え、車に戻りました。

私が車へ戻った後、交代で旦那が公民館まで行ってペットボトルの水をもらってきてくれました。
食料や飲み物を持たずに来たので、とても助かりました。
毛布も配っていたのですが、すでに配り切っていて、もらえなかったそうです。
食料もなく、車にあったチョコレートを分け合って食べました。
正直、極度の緊張状態にあったせいか食欲がわかなかったので、それほど苦痛ではありませんでした。
車に膝掛けを人数分おいてあったので、それを毛布がわりに夜を凌ぎました。

一番困ったのはトイレです。
商店街の駐車場に公共トイレはありましたが、水が流せないのです。
仕方なく、携帯のライトをかざしながら、ドブのあるところを探して外で用を足しました(汗)

車で一晩過ごすことにしたのはいくつかの利点にありました。
・ハイブリッドなので、ガソリンをあまり消費しない。
・テレビで情報が取れる。
・暖房がかけられる。
・車の中で携帯の充電ができる。

テレビでずっと情報を追っていたのですが、
輪島市や珠洲市で火事が起きたこと、津波があったことの情報が流れてきました。
能登だけでなく、加賀地方・富山県・福井県・新潟県でも被害が出ていることがわかりました。
今回の地震が相当な規模であることがわかって、自分たちが無事であったことの貴重さも感じました。


携帯は相変わらず繋がりにくい状態でしたが、金沢に自宅のある兄からショートメールで安否確認の連絡が入ってきました。
(どうやらショートメールは電波の悪い状況でも繋がりやすいようです)
兄に今の状況を伝えました。

長い長い夜でした。

後編に続きます→


【能登地震支援ポストカード販売中です】
売上を震災支援に使わせていただきます!







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?