能町みね子『結婚の奴』p153~p179 グータンヌーボの章からニューオータニの章まで 感想文

 エッセイを切り取って感想を述べるということは、無作法なことかもしれない。しかも私は能町みね子さんの熱烈なファンというわけではなく、彼女がどんな思想を述べてきたのかの変遷を理解しているわけでもない。かの有名な久保みねヒャダを定期的に見る努力もせず、さらにこの26ページ分の主題である雨宮まみさんの死すらも、この本を通して知った。しかし、平成10年に生まれて平成後期のサブカルを喰らって生きてきた私にとって、能町みね子さんと雨宮まみさんは自分から望まなくても必ず通る道だった。能町みね子さんの「雑誌の人格」「雑誌の人格2」「ドリカム層とモテない系」「たのしいせいてんかんツアー」、それから雨宮まみさんの「女子をこじらせて」「女の子よ銃を取れ」、この6冊は読んだことがある。この、読んだことがある、という表現はものすごく言い得て妙で、自分とは違う価値観だと反発するわけでもなく都合のいい自己投影をするわけでもなく、サブカル育ちの女の子なら必ず通る道として私は、いわば教養科目のようにおふたりの著書に触れてきたのである。

 そんな私がいつものように教養科目として履修した『結婚の奴』のグータンヌーボの章に、「目標は、幸せになって『つまんなくなった』って言われること」という言葉がある。そしてそう言う能町さんに雨宮さんは「幸せになってからダメになった、って言われたい」と重ねる。私はこの言葉に甚く感動し、共感し、納得し、教養科目を一気に思想にまで昇華してしまった。
 不幸を生きるのは辛いことだ。しかし偶然生まれついた不幸は時として、その人だけの特別な個性だと認識されることがある。そうなったときある種の人間は、この個性を手放してしまうことに恐れを抱く。誰かに面白がってもらうということすらも手放してしまったら手のなかに残るのは、笑い飛ばすことすらできない重苦しい現実だけなのではないかと危惧する。そんな重苦しい現実と決別したからこそ面白不幸という個性を手放せるはずなのにそれでも幸福に身を委ねられることができないのは、安心して全身の力を抜けるほど恵まれた生き方をしてこれなかったせいかもしれない。
 殊に女芸人という生き物には、この傾向が色濃く出る場合がある。私は全くそういうキャラクターではないので勝手な想像でしかないけれど、中途半端に小綺麗にしてただのブス(経験人数5人 頑張っているのに心から愛してくれた人0人)として無価値な人間に堕ちるくらいなら面白ブス(処女 気になるあの男にも面白いと思われている)として生きていく方がまだ救われる、みたいなことだ。これは一見すると「『つまんなくなった』と言われたくないから、幸せになりたくない」という、むしろ真逆の考えに思えるが、根本的には同じことだと思う。

 「幸せになって『つまんなくなった』と言われたい」も、「『つまんなくなった』と言われたくないから幸せになりたくない」も、結局のところは「つまんなくなった私のことを受け入られるほどの、受け入れてくれるほどの、大きな幸せがほしい」、もしくは「そうでない限り幸福に安心して身を委ねられない」なのではないだろうか。「面白くないと価値がない」=「つまらなくなったら捨てられる」という公式のもと、「不幸が個性」である自分は「幸せになったら面白くない」のではないかと自己分析し、「幸せになってつまらなくなったら捨てられる」という結論に帰結してしまう。幸せになることはつまり結果として、今より深い不幸をもたらす可能性が高い。そうなるくらいなら、現状維持で。
 不幸というものは波があるので、その波間を塗って揺蕩えばなんとなく生きていけるものだ。それこそこの本にあるように「ゴムを伸ばしまくって遊ぶ」ようなやり方で、なんとなく死なずに生きていける。どん底のときはあーぁ、さいあくだ、死にたいなぁ、と思い、楽しいときはサイコー!今死ねば最高のまま終われるのになぁ!と思い、その間にどんどん伸びて劣化していくゴムから目を背けて生きている。生きていけるというか、死なないでいられる。死ぬと生きるを裏表だと思えば確実に表なんだけど、0か1かだと思えば0.5かな、みたいな毎日を揺蕩う。私はそういう生き方をしているし、こいつもそうだろうな、あるいはそうかもしれないなぁと想像できる友達を、私は何人も知っている。そして私自身がそれに仲間意識を覚え、選択的にそういう世界に身を沈めているのだということも。私はそういう関係性を能町みね子さんと雨宮まみさんの間に見出して、そこに自分を投影したのかもしれない。分からない人には一生分からない感覚に違いあるまい。こんなことで優越感を感じるような人間はろくでもないので、分からない方が絶対に幸せに生きられるから安心してほしい。それでも私たちは不幸せのなかに、現状維持の幸福を得る生き物だからさ。

 もうひとつ、私が共感した箇所がこれである。
「一般的な葬式で、葬儀場の人が故人の人生についてポエム風にふりかえるのが嫌だと言っていたのに、昨日の火葬では見事に軽めのポエムを読まれていて、私は「ダセぇ」と思ったんだ。いきなり死ぬからこんなことになるんだ。死んだら思いどおりになんかいかないし、何をされても文句を言いようがないんだ、ざまぁ見ろ、お前はいますさまじく田舎くさくてダサいぞ。(ニューオータニの章 176ページ)」
 そうなんですよ、死んだら思いどおりになんかいかないし、何をされても文句を言いようがないのだ。例えば今私が死んだら、私のことをずっと泣いたら面白い玩具だと笑いながら罵倒していた父親がもっともらしい顔で喪主を務めたりするんだ。これは死ねない。漫画、「アラサーちゃん 無修正4巻」にこういう4コマがある。
「もうイヤだ!!生きててもなにもいいことないし!!死んだ方がマシだ!!」
「私が死んだらどうなるのかな…?友達がお葬式に来て泣いたり…その後の飲み会では私の写真の前に酒とかを置かれ…」
「SNSには私の個人情報やR.I.Pなどと書き込まれ…」
「生きてたほうがマシ!!」
 まさにこれである。安っぽい感動ポルノでワンワン泣いてヨシヨシされているやつを見下して生きているような人間にとって、自分自身がその触媒となるなんて文字通り死んでもごめんだ。生きてたほうがマシ!!

 大人数の前で泣く人間が好きじゃない。だって羨ましいから。飲み会で誰かが泣いているのを見るたびに、私の方が泣きたいぞと思う。私が泣かないのは辛くないからではなく、泣いても誰にもヨシヨシされないんだろうな、と思うからだ。私がもし今泣き出したらみんな困ってそっと距離をとり、私は居酒屋の隅で蹲って引っ込みの付かなくなった涙を無理やり流し続け、みんなはできるだけ私を忘れようと盛り上がり、どうにか泣き止んで輪に戻ったら私が来た瞬間に全員黙るんだろうな、と思うからだ。死ぬということについても同じだ。私が今死んだらみんな一応のところ葬式には参列してくれるかもしれないが、それだけである。「正解の顔をした人が雁首そろえてお別れに納得した涙を流し」に来るだけだ。

 このエッセイはそういったいわゆるR.I.Pのような冥福をお祈りする文脈ではなく、むしろ怒りに満ちている。「いない世界」を日常にしてしまわないためにわざと怒りを生み出し続け、それが漠然とした悲しみとして日常に霧散してしまわないように繋ぎとめている。

 もしも私が死んだら、そんなふうに怒ってくれる人はいるだろうか。自分勝手に死んだ私を嘘つき見栄っ張りと罵って軽蔑して、それをお利口に受け入れる周囲を茶番だと吐き捨ててくれるような人がいるだろうか。吸わないタバコを吸って薄く漂い続けた希死念慮に沿おうと悪ぶってくれる人がいるだろうか。スマホでタトゥーについて調べてくれる人がいるだろうか。私のために自暴自棄になってくれる人が、果たしてこの世にいるのだろうか。私のいない世界に襲われる人が、同じように揺蕩う世界に私を繋ぎとめようとしてくれる人が、はっきり正直に言ってしまえば道連れに苦しんでくれるような人が、いるだろうか。道連れに苦しんでほんのちょっと先っぽだけでも死んでくれるような人が、果たしているだろうか。そういう人がいないから、もしくはいることを知らないから私は、不幸という個性を孕み続けている。だってそんな人がいたら私はすごく嬉しいし、幸せなので。そんな幸福にならひょっとすると、身を委ねてしまえるので。そうであればこんなふうにギリギリにいつも生きているような人間には育っちゃわないので。泣きたい夜に会いに来てくれる友達もいないのに。

 それでも期待はしていたりする。「幸せになって『つまんなくなった』と言われたい」という考えは確実に私の心のどこかにあって、いつでもそれを待ち続けている。同じ海を揺蕩っていると勝手に想像している何人かの友達にも、もしかしたらこの人は、と期待してみたりもする。それでもまさか「私が死んだらどう思う?」なんて聞くことはできない。そんなことを聞いてしまえるほど、恵まれた人生を歩んで来れなかった。その責任の一端は私にあるのかもしれないということも、だんだん薄々気づき始めた。どうしようもない生まれつきの不幸の他に、自業自得の不幸もたぶん結構ある。こういうとき素直に可愛く聞いてしまえる勇気がない意気地の無さや、かといって自分のご機嫌を自分で取れない情けなさとか。だいたい大きな幸せにどうにか救ってほしいなんて傲慢すぎるのかもしれない。他人に幸せを求めて寄り掛かろうとするから捨てられるのかな、自分のことしか信じなければ裏切られることもないのかな。というかそもそも今の自分が面白いって思ってんの? 言うほど面白くないよ自惚れないで生きようね。話は堂々巡りに入る。そんなことを考えていたから、この感想文を書くまでにずいぶん時間をかけてしまった。感じたのに言語化できないでいることはまだこの何倍もあるように思える。詳細に考えたらたぶん、気付いてはいけない何かに気付く。気が狂う。

 もしくはきちんと向き合えた時に、本当の幸せに出会える仕組みになっている可能性もある。それでも私はとりあえずのところ、今より不幸になりたくないから、現状維持で不幸を揺蕩う。いつか大きな幸せが私を掬い上げて、ダメにしてくれちゃうんだと信じて。

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