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第一の習慣「主体的になる」

スティーブン・コヴィーの七つの習慣の一つ目として掲げられる、「主体的になる」。

19世紀に印象派グループに参加したアメリカ出身の女性画家メアリー・カサット(1844~1926)の生き方は、この一言に、集約することができるのではないだろうか。

女性が職を持つことがはしたないとされた時代、15歳のカサットが、「画家になりたい」と自らの進路希望を伝えた時、父親のコメントは次のようなものだった。

「お前が死んだ、と聞く方がマシだ」

現在なら、四年制大学に行き、就職する、という道よりも、「専門学校に行って技術を身に着けたい」と言うようなものだっただろうか。

しかし、父親にどんなに反対されても、カサットの決意は翻らなかった。

ペンシルバニアの美術学校に入学するも、そこでの勉強に飽き足らず、フランスのパリへ。

その後、普仏戦争を逃れて一時帰国するも、再びヨーロッパへ向かう。

当時、フランスの国立美術学校は、女性に対しては門戸は開いていなかった。

が、カサットはイタリアやスペインなど、各地の古典絵画を学ぶことを自分に課し、その成果を自分の中に取り入れていく。

そして、官展に作品を送り続けるが、「自分の描きたい絵」と、「官展に受け入れられる絵」の違いを感じ始める。

そして、「自分の描きたいように描く」ため、ドガの誘いに乗って、当時は「頭のおかしい集団」と見なされていた印象派グループに参加することを決意する。

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印象派に参加し、そして離れて後も、自分の「描きたい絵」を求めていく姿勢は変わらない。

1890~91年には、日本の浮世絵に触発され、自らカラー版画の連作に挑戦している。

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連作の一枚である、この<沐浴する女性>は、ドガをも驚かせ、唸らせた。


現状や、与えられた立場に満足せず、自らの意思で道を切り開くことを選んだカサット。

それは、時として「いばらの道」でもあったが、彼女は歩みを止めることはなかった。

<オペラ座にて>で、奥の席から、自分に向けられる男性の眼差しにもかまわず、オペラグラスをのぞき込む黒衣の女性の姿は、「主体的にあり続けた」彼女の生き方を彷彿とさせる。

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