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カラヴァッジョ<受胎告知>

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カラヴァッジョ、<受胎告知>、1608年


 <受胎告知>は一言でいえば、「おめでた」。

 救い主となるべき子を身籠ったことを、天使がナザレに住む一人の女性マリアに告げる。

 キリスト教においては、救い主誕生の前段階にあたる、重要なイベントであり、何人もの画家が、輝かしく喜びに満ちた画面として描いてきた。

 カラヴァッジョ作品のように、重苦しい絵はかえって珍しいのではないか。

 彼の絵では、跪くマリアには光輪すらついていない。

 ただ、彼女の服装と、羽のついた天使、そして天使の手にするユリが、状況をわずかに教えてくれる手掛かりになっている。

 だが、突然「おめでとう」「貴方は身籠られた」と告げられたマリアの心情はいかなるものか。

 自分はまだ結婚すらしていない。なのに、子供が出来た?私に?

 それでも信心深い彼女は、「神の意思」として、自分に向けられた言葉を受け止める。

「私は主のはしためです。お言葉の通りのことが、この身になりますように」

 この天使によって声をかけられ、マリアがそれを受け入れたその瞬間、それが「イエスが胎内に宿った」と解釈されている。

 そのため、絵によっては、窓から飛び込む聖霊の白い鳩や十字架を担いだキリストが小さく描き込まれていることもある。

 割と簡単なやり取りにも思えるが、よくよく考えて見ると、彼女はこの瞬間、その先にある運命も含めて重い物を受け取ったということでもある。

 彼女は後に、我が子が「メシア(救世主)」を語った罪人として逮捕され、拷問され、そして最も重い処刑法である磔刑で死ぬのを見なければならない。

 それを踏まえた上で絵を見ると、雲の上から半身を乗り出すようにしている天使の姿勢は、まるでマリアに覆いかぶさる大きな波のようだ。

 そして、マリアは両手を胸の前で交差して、目を伏せ、静かに「これから」を、全身で受け止めようとしている。これまで、普通の一人の女性として、思い描いてきた人生から大きく外れることを覚悟して。

 だが、その佇まいは、どんなに重くても、よろめくことも崩れることもないのだろう、とも感じさせる。

 特別強いわけではない、高貴でもない。人の群れの中に放り込んでしまえば、すぐに見失ってしまうタイプの「普通の人」。

 マタイだろうと、聖母だろうと、カラヴァッジョは、そのような「普通の人」として彼らを描き出す。(それ故に、しばしば反発や、作品の受け取り拒否を食らう)そして、彼らの「運命」が変わる、つまり「普通」からはずれるその瞬間を切り取る。

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 そして、その運命を受け取り、彼らは歩き出す。

 その先に待っているものが何であろうと。

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