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映画『ジャンヌ・デュ=バリー』覚書

フランス王妃マリー・アントワネットを主役にした映画やマンガは多いが、デュ=バリー伯爵夫人を扱った作品は初めてだ。
王太子妃時代の彼女と対立したという史実から、マリー・アントワネットがメインの作品では初期の「敵役」ポジションで出てきやすい。その最たる例が、つり目でいかにもきつそうな女性として描かれた『ベルバラ』だろう。
しかし、それはマリー・アントワネットから見た話。
かたや名門ハプスブルク家に生まれ、国同士の同盟の証として、はるばるオーストリアから王太子のもとへお輿入れした姫君。
かたや下層階級に生まれ、女の魅力を駆使してのしあがり、王の公式寵姫として宮殿のトップに立った女性。
姫君にしてみれば、寵姫は「宮廷の秩序を乱す」存在であり、「許しがたい」存在。しかも、まだ15歳だから、まわりにそれが「正義」「使命」だと焚き付けられれば、乗ってしまうのは仕方ない部分もあるだろう。
王太子妃は、自分にはない「高貴な血筋」の持ち主であり、それ故に将来は王妃になる未来が保証されている。
寵姫にとっては、「血筋」も「王妃の地位」もどう足掻いても手に入らないものだ。地位が逆転することは未来永劫ありえない。
コンプレックスや嫉妬に固まっても不思議はないだろうが、この映画『ジャンヌ・デュ=バリー』での彼女からは、そのようなものはほとんど感じられない。
良くも悪くも「あるがまま」、ヴェルサイユでの時に滑稽にも思えるマナーも、事前に予習はするが、そこまで重視しない。
義理の息子アドルフ(夫デュ=バリー伯爵の息子)を弟のように可愛がり、結婚を取り持ち、彼が死んだ時には涙を流す。
王から贈られた黒人少年ザモルに対しても、ルイ15世の娘たちのように差別することなく、小姓として常に傍におき、一緒に遊び、教育もする。
生きるために「娼婦」にもなったし、それが他の宮廷人からの差別のタネにもされるが、「娼婦」ではなく、一人の人間として彼女に接し、慕ってくれる彼らには「無償の愛」を注ぐ。
そして、王に対しても。
伝染病に感染した王のもとから退去を命じられながらも、「最後の挨拶」をしに戻ってくる。(この時に彼女を助けてくれる王太子が、後のルイ16世)
そして、最初の夜に、彼女自身が苦手だと申告した、「王に背を向けず、小刻みに後ろに下がる歩き方」によって退出する。
エチケットだから、というよりも、彼女自身の愛と誠意の証として。
この映画は、「娼婦」でも、欲深い悪女でもない、一人の女性としてのジャンヌの物語、と集約できようか。


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