横浜線で出会った老紳士

「男だから」「女だから」という言葉をかけられて、嫌だなと思わなかった時にはどんな場面があったかなと思い返していた。

色々あったが、嬉しい記憶として残っているのは、子どもを抱っこ紐で連れて大荷物を持って横浜線に乗った時の思い出である。
優先席も座席が埋まっていて、立っていたところ、近くの座席に腰掛けていた老紳士が立ち上がり、「あなた、ここにおかけなさい」と声をかけて下さった。腰がお悪いようで杖をついてゆっくり立ち上がられたのだが、揺れる車内に立っておられるのはお辛いのではと思われる様子だった。

私は「大丈夫ですよ!私、肉もついていまして元気ですので!」と、産後の逞しい二の腕をお見せしたのだが、そのかたは首を振って「ダメダメ、おかけなさい。危ないですから」「私はもうじき降りますから」とおっしゃる。
ではお言葉に甘えて、と譲っていただいた席に座った。そのかたは続けて、「私はね、男ですからね、立っているのなんてへっちゃらですよ。女性はね、赤ちゃん連れてたらね、どうぞ遠慮せずにお座りなさい。大変なんですから。休めるときに休んでおきなさい。私はね、戦中派ですからね、こう見えて足腰は鍛え上げてありますからね。へいちゃらなんですよ」と真面目な顔でおっしゃる。

戦中派ということは……とご年齢を推察しながら相槌を打ちしばらく世間話をした。「私は男だから」「あなたは女性だから」という言葉に、そのかたの生きてきた時代と社会規範の影響は確実にあるのだけれど、そして別の場面ではこれらの言葉が負の機能を働かせてしまうことも当然あるのだろうけれど、それでも私はこのときとても嬉しかったのだ。
それは、このかたが私に対して、「ああ大変そうだな、休んでほしいな」と思って下さった優しさがそこにあり、自分は大丈夫なのだ、心配するなと、こちらの申し訳なさに対する配慮が行き届いていたからだった。

言葉は価値観の表れであり、人を規定し抑圧する道具になり得る。かつてはそれで良いとされていた慣例や常識の綻びが発見され是正されるときには、言葉と表現も一緒に改められていく。私はその過渡期にこそ、新たな言葉の用い手として敏感でありたいと思うのだ。

私は老紳士にお礼を言った。「ご親切にして頂けてとても嬉しいです。お体にお気をつけて」。

男とか女とか関係ないですよ、という「正論」を私の頭はいつも自動的に思いつく。でも、私は強い女ですから大丈夫です、という言葉よりも、その方を思いやる言葉をかけたい、とその時は思った。
「男だから」「女だから」の先にあるヒューマニズムに早く辿り着きたい、と思いながら今日も生きている。

そして付け加えるなら、「子育てをしている女は」という言葉が、「子育ては女がするもの」という残念な認識と親密な関係にあることもまた事実なのだけれど。

でも私はあのときの老紳士は、きっと子育てを自分もしてきた人か、少なくとも子育ての過酷さへの想像力のある人だろう、と思ったのだった。

「女性ならではの感性や共感力」とおっしゃらずに、女性の置かれた立場や現状への想像力や共感力を発揮して下さる男性がもっと沢山おられたら、私たちはもっとみんなで仲良く暮らして行けるでしょう、と私はこの国のリーダーの方にお伝えしたい。

あの老紳士がお元気だといいな、と思い出す夕暮れ。

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