空回りしているときは
「何者かにならなきゃ、という想いを手放してみたら?」
ここ数ヶ月、どうにも自分が空回っている気がして、先日、私にしてはめずらしく人に相談をしてみた。そうしたら、このような思いがけない言葉をいただき、ちょっと面を喰らってしまいましたよね、というお話です。
大人になって、"社会"という世界の中で生きていると、自分の肩書きとか、自分は何者なのかとか、そういう自分の存在に対する問いみたいなものに、一度は出くわす気がしているのだけれど、どうだろうか(もはや、現代の通過儀礼?とも思ったり)。
例に漏れず私も真っ向からこの問いに向き合った時期があった。その時、私が最終的に行き着いたのは、「私は何者にもならなくていい」「ただ私を生きればいい」という答えだった。
これは決して負け惜しみとかではなく、私が尊敬する大人たちからは、「何者かになってやろう」なんて空気を微塵も感じたことがなかったから。
以来、この「何者」問題は、私の中ではすっかり通り過ぎたトピックになっていた。
だから今回、「何者かにならなきゃ、という想いを手放してみたら?」と言われた時、その瞬間は意味がよく理解できなかった。
私は何者かになろうとしていたのか?
今更すぎない...?
考えてみれば、「何者にもならなくていい」と思っていたのは、会社員をしていた頃。「何者」でもないけれど「会社員」ではあった訳で、一応の肩書き的なものはあった(その肩書きに納得しているかは別として)。
でも、昨年の春に会社を飛び出してから、私は本当に「何者」でもなくなった。
会社を辞めてからの私は、個人として仕事を受けつつも、時間の大半を自分のやりたいことに費やしていた(し、今もわりとそんな状況です。これは会社を辞める前から決めていたことで、しばし自分のために時間を使いたかったのです)。
会社員の時に比べれば、圧倒的にストレスフリーですこやかな毎日。ワクワクに溢れている。
しかし、言われてみれば、「これから私はどうするのか」という不安をまとった問いが、いつも頭の片隅で散らついていたような気がする。いや、散らついていたな(確信)。
畑をしている時も、染色を学んでいる時も、旅に出ている時も、よろこびとともに、「さて、これはこれで楽しいけれど、これからの私どうしようねぇ?」と、いつもどこからか声がしていた。
これってつまりは、お暇生活は期間限定のつもりであり、会社員を辞めたことで空いたスペースを埋めるかのように、「早く何者かにならなきゃ(変わらなきゃ)」と思っていたということなのだと思う。
お暇生活を満喫していると思いきや、どこかいつも不安で、「何者」かになろうとして、自分を追い立てていたとは...(衝撃)。自分でやりたくてやっているつもりだったけれど、何者かになるために「なにかしなきゃ」と思ってやっていたことも、実はあったのかもしれない。そんな気がする。
不安をちゃんと認めてあげること。ないことにしたり、ごまかしたりせずに、認めて、適切に対処すること。
大切ですね。大切なんだけど、何度も同じ失敗をしちゃうなぁ。不安に打ち勝つ必要はなくて、ただ気づいてあげればいいだけなのに。
何者かになろう、変わろうとしていたことを素直に認めて、もうそんなことしなくていいよ、このままでいいよ、と思い始めたら、私の心を覆っていたモヤモヤがすっと晴れた。
「今日はこれやりたいかも!」というようなライトな気持ちが戻ってきてくれた(今まで重かったのね)。うれしい。
もちろん、目標や叶えたい姿が明確にあるのなら、それを目指して変わっていくことは必要だと思う。
ただ、今回の私みたいに、なんだか上手くいかない、空回りしてるなという時は、まず一度立ち止まってみる。なにかしなきゃとか、変わらなきゃとか、そういう気持ちがないか点検して、あったら手放す。そうしたら、きっと光が差し込んでくるのではないかな。
このままの私で大丈夫。
今のあなたのままで大丈夫。
愛と感謝を込めて。
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