見出し画像

『フェイクスピア』に寄せて

野田地図『フェイクスピア』を半年ぶりに映像で鑑賞した。

野田秀樹作品は、大学生の頃に妻夫木聡と深津絵里を生で観てみたいというミーハー心から『エッグ』の当日立見券に並んで以来、その巧みな言葉遊びと、凡人には到底思いつかない予想を遥かに超えてくるストーリー展開にどハマりし、毎年新作を心待ちにしてきた。

エッグの初演は2012年らしいので、もうかれこれ10年以上になるのか。
まぁ年によっては忙しかったりなんかで劇場に足を運べなかった作品もあるのだけれど。

昨夏に上演された『フェイクスピア』も例外ではなく、そうなりかけていた。

日常に忙しく動き回っていたら、チケット発売日などすっかり過ぎ去り、気づいた時には舞台の幕が上がっていた。

大変失礼ながら、本作の主演である高橋一生氏にはそこまで興味がなかったし、引き続き日々の予定も詰まっていたので、今年はやむなしと思っていた。

でもある朝、悪天候で農作業に行く予定が急にキャンセルになった。
そこでふと、当日券に並びに行こうとひらめいたのだった。東京公演はそろそろ終わるし、今日を逃したら本当に今年は観ないことになるぞ、と。

(野田地図公演は毎回当日券が出る。ソワレでも朝から並ぶのは必須なのだが、チケットぴあで買うよりも良席だったりするし、お財布にやさしい立見席も出るので、若い頃は2回目を観たい時なんかによく並んでいた。)

PC持参で電車に飛び乗り、なんとか劇場の開館時間を大幅に過ぎずに到着。当日券購入可能圏内だろうと思われる位置に並ぶことができた。

しばしPC作業に集中したのち、当日券を手にして劇場へ。
客入れのBGMの選曲がなかなか良くって、しばらく親切な何方かがつくってくださったプレイリストを愛聴していたほどだ。

そして、舞台の幕が上がる。
暗闇から浮かび上がる高橋一生氏の最初の台詞が圧倒的で、一瞬で彼方の世界に誘われたことを思い出す(今でもこの台詞は誦じられる)。

そこからはもう、特急列車に乗ったがごとく、野田秀樹ワールドを駆け抜けるのみ。

いつもの野田地図とはどこか違う雰囲気を感じるその作品に、私は心をぐわんぐわん揺さぶられ、幕が下りる頃にはマスクの中が涙でとんでもないことになっていた。
物語を彩った原摩利彦氏の音楽もなんともよかった。

ここまで心が動いた作品は初めてで、どうしてだろうとしばらく考えていたが答えは出ず、いつの間にかタイミングよく発売された大阪公演の追加席を何公演分か確保し、大阪まで向かっていた。

何がそんなにも私を惹きつけているのか。
何か私と作品に通づるテーマでもあるのだろうか。

生と死
親と子
言葉とはなにか

こういったテーマは私が常々考えていることではあるのだけれど、それ以上に何かがある気がしてならなかった。

高橋一生氏の演技も圧巻で(興味がないとか言って本当にごめんなさい)、それをもう一度、いや、できることなら何度でも体感したいという気持ちもあったけれど、そういうことでもないもっと大きな何かが私をとらえていたように思う。


その夏、謎は解けぬままだったけれど、今回改めて観てみると、私の心を動かしたものの正体は、作品のテーマもさることながら、作り手の熱量、そして、この作品を何としても世に出すのだ、という覚悟のようなものな気がした。

作品の中に漂う、目には見えぬ、ゆるぎない覚悟。

本作は実話がベースになっていたこともあり、そこに関わるさまざまな人々の想いが、覚悟が、魂が、舞台の上に集結していたのかもしれない。

最近の私にとって覚悟はテーマだ。自覚している。
覚悟しても、なにかとゆるぐ。
それが今の私。


それにしても、演劇が映像配信されるってすごい時代がきたものだ。
嬉しくもあるけれど、私はやっぱり、演劇独特の劇場が聖地になる感じが好きです。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?