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私の世界の捉え方 #教養のエチュード賞

 マスクをして外に出ることが当たり前になって、改めて町中に溢れている「匂い」の大切さに気が付いた。
全盲と言う視覚障害があり、視覚を使わずに生活している私にとって、匂いは歩く手がかりを教えてくれる情報の一つだ。

「ラーメン屋さんの匂いがしたら、そろそろ信号がある」
「コーヒーの匂いがしたら、そろそろ下り階段がある」
路の情報を、匂いや音と組み合わせていく。
歩きながら考え事をしていても、パズルのピースがはまるように、匂いと周辺の状況がセットになって頭の中に入ってくる。
これらの情報を手掛かりに、白い杖を使って買い物に行き、仕事に行き、遊びに出かけている。

マスクが顔の一部のようになってきたある日、娘と歩いていた私の匂いセンサーが強く反応した。
「今めっちゃチョコレートのにおいしたけど、なんのお店?」
「ママのすぐ隣がミスドだよ」
と答えてくれた娘に
「そっか、また今度行こう」
と言いながら、嗅覚が育ってきているなと実感した。
それを意識してからというもの、マスクをする以前のようにいろんなにおいの情報が流れ込んでくるようになった。
「嗅覚って育つんやね」
同じく全盲の夫に言うと
「知らん間に鍛えてたんちゃう?」
との返事。
「嗅覚って鍛えられるもんなん?」
「無意識かもしれんけど、点字読むのだって、最初からスラスラ読めるわけじゃなくて、練習するやん。それと同じなんちゃうか」
そうかもしれない。
「マスクするようになって、外歩くの困ってへんの?」
と尋ねると、夫はとくに困っていないらしい。
匂いセンサーを使わずに歩いているとのことだ。
例えばコーヒーのいい香りがしても、それは「情報」ではなく「一つの匂い」として入ってくるようだ。

目が見えている娘は、私とよく出かけていたからか、匂いセンサーが発達しているなと感じることが多い。
まだ3・4歳だった頃、私がいい香りを感じたのと同時に
「ママ、鰹節のいい匂いだねぇ」
と娘が言った。
「そうやね。だしの匂いやね。近くにお蕎麦屋さんがあるからやわ」
と話したことを憶えている。
娘は私が匂いから情報を得ていることを自然ととらえ、それが私とのコミュニケーションの一つとして身についていったのだ。

「生まれつきの全盲です」
と話すと
「耳がいいんでしょうね」
「感覚が豊なんでしょうね」
と言われることが多い。

中には天才的な能力を持っている人もいるかもしれないが、目が見えない人が全員素晴らしい能力を持っているわけではないと思う。

見えない人の多くは特別な能力が備わっているのではなくて、視覚を使わないことで他の感覚が育っていくのだ。
その結果「耳がいい」「感覚が豊か」だととらえられるのだと思う。
見える人が目で見てやっていることを他の感覚に置き換えることで、育つ力がある。
でも、視覚以外の感覚が育って行くのは、見える人にも当てはまるなと娘を見ていて感じる。

先日友人と銀座を歩いていたときにも、匂いセンサーが強く反応した。
「近くにマックない?」
まさか、銀座のど真ん中にあるのかという思いで尋ねてみた。
「あるある!気づかなかった!」
と友人。私の声に辺りを見渡せばマックの看板が目に入ったとのこと。
しばらく歩いていると
「じゃあ、今近くになんのお店があるか分かる?」
と聞かれた。
嗅覚が育ってきている話をしたこともあり、ここはすらっとお店の名前を答えたいところだ。
でも、手掛かりになるものはなにもなかった。
「なんの匂いもしないし、なんの音もしないから分からないかも」
「パチンコ屋だよ」
「えー!全然音も匂いもないね!」
と言うのと同時に扉が開き、騒がしい音とたばこの匂いが流れ出してきた。
「あー、やっと分かった!」
「外に音も匂いも漏れないようになってるんだね」
と話しながら、きっと友人の頭の中ではパチンコ屋を見たらあのにぎやかな音が鳴っていたのだと思う。

「私は視覚に頼りすぎてるんだろうな」
これは彼女以外からもよく言われることだ。
視覚に頼るのは悪いことではないし、代替手段を考える必要がないのであれば頼れるものを使うのは当然だ。
視覚を使う人と、視覚を使わない私。
いろんなやり方があって面白いし、それぞれの工夫を話すのも聞くのも楽しい。
私の中に、まだまだ使っていない視覚に置き換わる力が眠っているのかもしれない。
どんな感覚が育っていくのか、楽しみにしたいと思う。

*こちらのコンテストに参加させていただきました。


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